2010年1月18日、アジャがトルコの刑務所から釈放されたことをBBCワールドニュースが伝えた。2014年12月27日、アジャはサン・ピエトロ大聖堂を訪問し、ヨハネ・パウロ2世の墓に献花した。アジャはフランシスコ教皇との面会も求めたが、バチカン側に拒否された。
なお、事件当日の5月13日はファティマの聖母出現の記念日であったため、ヨハネ・パウロ2世は「聖母が弾をそらして下さいました」と語っていたという。 翌年の同じ日である1982年5月13日、ヨハネ・パウロ2世が最初の暗殺未遂からの「聖母のご加護」に感謝を捧げるため、ポルトガルのファティマを巡礼していた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン=モスクワ協定に反対していた、聖ピオ十世会のスペイン人司祭で超保守派のフアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロン神父 (Juan Maria Fernandez y Krohn
1982年5月13日の事件
クロン神父は群衆の中からキャソック姿で現れ、ヨハネ・パウロ2世の背後から近づくと、「打倒教皇、打倒第2バチカン公会議」と叫んでから、長さ40cmのモーゼルライフルの銃剣で教皇を刺した。ヨハネ・パウロ2世は負傷したものの生命に別状はなく、教皇を暗殺しようとしたクロン神父を祝福し、巡礼旅行を続けた。クロン神父は犯行現場で治安部隊に無抵抗で逮捕され、懲役6年の判決を受けてリスボンの刑務所に3年服役した。
この襲撃事件そのものは、当時マスメディアで報道されたため世界中に知られていたが、ヨハネ・パウロ2世が出血をともなう負傷をしていたことは、その後2008年10月15日になって初めて公表された。教皇の元側近でクラクフ大司教であったスタニスラフ・ジビッシュ枢機卿 (Stanislaw Dziwisz) の回顧録をもとに製作されたドキュメンタリー映画「証言」の中で、ナレーターを務めたジビッシュ枢機卿自身が明らかにしたものである[14][15][16][17][18]。 初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世に次いで、歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長期間の在位であったが、晩年は暗殺未遂で受けた重傷の後遺症や、パーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受けた。 2005年2月からインフルエンザと喉頭炎による入退院を繰り返し体調が悪化していたが、同年3月31日以降感染症によって容体はさらに悪化した。しかし教皇は入院を拒み、住み慣れたバチカン宮殿の居室で療養することを選んだ。ヨハネ・パウロ2世の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。
帰天と葬儀
帰天