ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)
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1618柱の位牌が納められた五重塔はヨハネ・パウロ2世に奉呈された[11]

1982年5月28日には歴代ローマ教皇史上初めてイギリスを訪問、バッキンガム宮殿エリザベス2世を訪ね、1534年イングランド国王ヘンリー8世の離婚問題以来448年にわたり断絶状態にあった英国国教会とローマ・カトリックの和解の挨拶をした。翌29日にはカンタベリー大聖堂にロバート・ランシーカンタベリー大主教を訪問した[12]

1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪れるなど、ユダヤ人への親近感を示し続けたことなどでも知られる。

キリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行っており、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍正教会ムスリムへの行為への反省と謝罪、異端として火あぶりにされたヤン・フスガリレオ・ガリレイ地動説裁判における名誉回復などを公式に発表している。
保守的姿勢

社会問題や他宗教との対話に注力した一方で、従来同様にカトリック教会において女性の聖職者を認めないなど、教義的には伝統を逸脱せず保守的なことで知られる。1979年の最初の回勅「レデンプトーリス・オミニス」(『人間のあがない主』)から2003年の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会にいのちを与える聖体』)まで、多くの回勅や使徒的書簡を精力的に発表している。

特に議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、プロライフの立場から妊娠中絶安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。

ヨハネ・パウロ2世にとって、内部的には常にカトリック教会において存在する、保守派と改革派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請に、カトリック教会としてどう答えてゆくか、ということが常に課題であった。

また1980年代前半には、宗教事業協会(バチカン銀行)の主力取引行であったアンブロシアーノ銀行の破綻やロベルト・カルヴィ暗殺事件、極右秘密結社に高位聖職者が関与したP2事件などの、バチカンを揺るがすスキャンダルにも関わることを余儀なくされた。晩年の病気などにより、前教皇が進めようとした宗教事業協会を中心としたバチカンの構造改革については積極的に関与せず、次代教皇への積み残し課題となった。
暗殺未遂事件
1981年5月13日の事件「ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件(英語版)」を参照

1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はバチカンサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアメフメト・アリ・アジャから銃撃された。銃弾は2発命中し教皇は重傷を負ったが、奇跡的に内臓の損傷を免れ一命を取り留めた。アジャは逮捕され終身刑が宣告された(その後恩赦され、送還先のトルコで以前に犯した罪により服役)。

1983年クリスマスの2日後、ヨハネ・パウロ2世は狙撃犯人のアジャが収監されている刑務所を訪れた。2人は面会し、短時間の会話を行った。教皇は「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなければならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」と語った。2005年4月にヨハネ・パウロ2世の訃報を聞いたアジャは深い悲しみを覚え、喪に服したことが家族により伝えられている。

2005年2月にヨハネ・パウロ2世自身が著書で「犯行は共産主義者によるもの」と発表し、2005年3月には前月に証拠書類が東ドイツで発見されていたとドイツ紙が報道した[13]。それによると事件はソ連国家保安委員会 (KGB)が計画し、トドル・ジフコフ率いるブルガリア人民共和国東ドイツなどが協力していたという。祖国ポーランドをはじめ当時の社会主義圏東側諸国における反体制運動の精神的支柱である、ヨハネ・パウロ2世の絶大な影響力を抹殺することが目的であった。

2010年1月18日、アジャがトルコの刑務所から釈放されたことをBBCワールドニュースが伝えた。2014年12月27日、アジャはサン・ピエトロ大聖堂を訪問し、ヨハネ・パウロ2世の墓に献花した。アジャはフランシスコ教皇との面会も求めたが、バチカン側に拒否された。

なお、事件当日の5月13日はファティマの聖母出現の記念日であったため、ヨハネ・パウロ2世は「聖母が弾をそらして下さいました」と語っていたという。
1982年5月13日の事件

翌年の同じ日である1982年5月13日、ヨハネ・パウロ2世が最初の暗殺未遂からの「聖母のご加護」に感謝を捧げるため、ポルトガルファティマ巡礼していた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン=モスクワ協定に反対していた、聖ピオ十世会スペイン人司祭で超保守派のフアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロン神父 (Juan Maria Fernandez y Krohn) に銃剣で襲われ負傷した。

クロン神父は群衆の中からキャソック姿で現れ、ヨハネ・パウロ2世の背後から近づくと、「打倒教皇、打倒第2バチカン公会議」と叫んでから、長さ40cmモーゼルライフルの銃剣で教皇を刺した。ヨハネ・パウロ2世は負傷したものの生命に別状はなく、教皇を暗殺しようとしたクロン神父を祝福し、巡礼旅行を続けた。クロン神父は犯行現場で治安部隊に無抵抗で逮捕され、懲役6年の判決を受けてリスボンの刑務所に3年服役した。

この襲撃事件そのものは、当時マスメディアで報道されたため世界中に知られていたが、ヨハネ・パウロ2世が出血をともなう負傷をしていたことは、その後2008年10月15日になって初めて公表された。教皇の元側近でクラクフ大司教であったスタニスラフ・ジビッシュ枢機卿 (Stanislaw Dziwisz) の回顧録をもとに製作されたドキュメンタリー映画「証言」の中で、ナレーターを務めたジビッシュ枢機卿自身が明らかにしたものである[14][15][16][17][18]
帰天と葬儀
帰天

初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世に次いで、歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長期間の在位であったが、晩年は暗殺未遂で受けた重傷の後遺症や、パーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受けた。

2005年2月からインフルエンザ喉頭炎による入退院を繰り返し体調が悪化していたが、同年3月31日以降感染症によって容体はさらに悪化した。しかし教皇は入院を拒み、住み慣れたバチカン宮殿の居室で療養することを選んだ。ヨハネ・パウロ2世の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。


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