1980年5月21日、パウロ6世の遺志を引き継ぎ[注釈 4]ヨハネ・パウロ2世が、A級・BC級戦犯として処刑された人々へのミサをサン・ピエトロ大聖堂で執り行った。1618柱の位牌が納められた五重塔はヨハネ・パウロ2世に奉呈された[11]。
1982年5月28日には歴代ローマ教皇史上初めてイギリスを訪問、バッキンガム宮殿にエリザベス2世を訪ね、1534年のイングランド国王ヘンリー8世の離婚問題以来448年にわたり断絶状態にあった英国国教会とローマ・カトリックの和解の挨拶をした。翌29日にはカンタベリー大聖堂にロバート・ランシーカンタベリー大主教を訪問した[12]。
1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪れるなど、ユダヤ人への親近感を示し続けたことなどでも知られる。
キリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行っており、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省と謝罪、異端として火あぶりにされたヤン・フスやガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを公式に発表している。 社会問題や他宗教との対話に注力した一方で、従来同様にカトリック教会において女性の聖職者を認めないなど、教義的には伝統を逸脱せず保守的なことで知られる。1979年の最初の回勅「レデンプトーリス・オミニス」(『人間のあがない主』)から2003年の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会にいのちを与える聖体』)まで、多くの回勅や使徒的書簡を精力的に発表している。 特に議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、プロライフの立場から妊娠中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。 ヨハネ・パウロ2世にとって、内部的には常にカトリック教会において存在する、保守派と改革派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請に、カトリック教会としてどう答えてゆくか、ということが常に課題であった。 また1980年代前半には、宗教事業協会(バチカン銀行)の主力取引行であったアンブロシアーノ銀行の破綻やロベルト・カルヴィ暗殺事件、極右秘密結社に高位聖職者が関与したP2事件などの、バチカンを揺るがすスキャンダルにも関わることを余儀なくされた。晩年の病気などにより、前教皇が進めようとした宗教事業協会を中心としたバチカンの構造改革については積極的に関与せず、次代教皇への積み残し課題となった。
保守的姿勢
暗殺未遂事件
1981年5月13日の事件「ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件(英語版
1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャから銃撃された。