ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)
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カトリック教会の聖人[注釈 2]、教皇ヨハネ23世とともに列聖された[注釈 3]神学と哲学の2つの博士号を持っていた。

冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たした。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた[2]

また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。
生涯

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非合法神学校から枢機卿へ司祭のときのカロル・ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)

カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。

ヴォイティワは若くして家族の喪失を体験した。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。

1939年、ヴォイティワが19歳のときにナチス・ドイツポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優脚本家としても活動していた。

ヴォイティワは第二次世界大戦中の1943年に聖職者として生きることを決意したが、共産主義政権下で神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日司祭叙階された。

優秀だったヴォイティワは、司教の推薦でローマ教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学んだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得している。また、ヴォイティワはこの年にポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たした。

1953年にヴォイティワは『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出、その後もクラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教えた。

1958年7月4日、ヴォイティワはピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日叙階した。時に38歳であった。

1962年に開始された第2バチカン公会議には、クラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献した。

1964年1月13日、ヴォイティワはパウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、1967年7月26日には同教皇によって枢機卿に親任された。


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