ヨハネスブルグ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2019年の近郊を含む都市圏人口は1,050万人を擁するメガシティで、同国内では第1位、アフリカ内でも第4位である[4]

アフリカを代表する世界都市のひとつに数えられ、アメリカ合衆国のシンクタンクのひとつであるAT Kearneyが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ヨハネスブルグは世界53位の都市と評価された[5]。アフリカの都市では首位である。また、2016年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界42位と評価された[6]都市のGDPは1,100億ドルで、南部アフリカ第1位である[7]。アフリカ最大の証券取引所であるJSEの所在地でもあり、アフリカ最高の金融センターと評価されている[8]
名称

名称の由来は確証が得られないものの、1886年に金鉱が発見された際に測量のため派遣されたヨハネス・マイヤーとヨハネス・リシックの名にちなんでいるという説が知られている。なお「Burg」は、アフリカーンス語の古語で「要塞都市」を意味する[9]

英語読みだと「ジョウハニスバーグ」、アフリカーンス語読みだと「ヨハネスブルフ」となる。略称として、Jozi、Joburg、Joni、eGoli、Joeys、Jhbなどが用いられている。

日本の高校生向け地図帳などでは「ヨハネスバーグ」と表記しているものもあるが、これは英語読みとアフリカーンス語読みが混在したもので不適切な表記だと指摘する声もある[10]
地理ヨハネスブルグの上空画像
地形

南アフリカ北東部の標高が約1,753mの高地に位置する。周辺地域は、ウィットウォーターズランドと呼ばれる小さな峰で、北部や西部の郊外は起伏のある丘が見られる。一方で、東部の都心地域は平野である。

ヨハネスブルグは年間平均降水量は713mm程度と比較的乾燥した気候であるにもかかわらず、600万本もの樹木がある世界最大の人工林を持つ都市と言われている。ほとんどの樹木は都市の北側に鉱業のため19世紀に植えられたものである。この地域はダイヤモンド鉱山などを牛耳るドイツ系移民の企業家Hermann Ecksteinが開発していた。彼はこの辺りを "forest estates Sachsenwald" と呼んでいた。その名前も、" Saxonwold" に変わり現在は郊外の地名になっている。第1次世界大戦中に、白人居住区はこの地域に移り、人工林も保持され、さらに新しい木も植えられた。しかし、その後の人口流入などのために現在は北側の開発が進み、多く樹木が伐採されている。20年から30年のうちに多くの森林が失われることが危惧されている。
気候

10月から4月の夏の期間は、午後遅い時間に時折激しい雨が降る。年間平均降水量は713mmで、そのほとんどが夏の期間に降る。その雨の勢いは凄まじく、道路が冠水し、衛星放送が見られなくなるなど、市民生活に影響があるほどである。豪雨は、雷や雹をともなうこともある[11]。なお、ヨハネスブルグは自称ながら「世界一雷の多い街」と呼ばれる[12]

ヨハネスブルグの気温は通常穏やかである。南緯26度付近と低緯度ながら、標高が高いこともあり、夏の1月でも最高気温は26℃程度に留まる。また、冬の6月でも最高気温は平均して16℃程度である。しかし、冬の間は時々、気温が深夜に下がり、霜の降りる場合もある。なお、雪は滅多に降らず、1956年5月、1981年9月、2006年8月に経験したくらいである。2007年6月27日も降雪があり、その時は約10cmの積雪があった。その後、2012年2023年にも降雪が観測されている[13]

ヨハネスブルグの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)35
(95)34
(93)32
(90)29
(84)26
(79)23
(73)24
(75)26
(79)31
(88)32
(90)33
(91)32
(90)35
(95)
平均最高気温 °C (°F)25.6
(78.1)25.1
(77.2)24.0
(75.2)21.1
(70)18.9
(66)16.0
(60.8)16.7
(62.1)19.4
(66.9)22.8
(73)23.8
(74.8)24.2
(75.6)25.2
(77.4)21.9
(71.4)
平均最低気温 °C (°F)14.7
(58.5)14.1
(57.4)13.1
(55.6)10.3
(50.5)7.2
(45)4.1
(39.4)4.1
(39.4)6.2
(43.2)9.3
(48.7)11.2
(52.2)12.7
(54.9)13.9
(57)10.1
(50.2)
最低気温記録 °C (°F)7
(45)6
(43)2
(36)1
(34)?3
(27)?8
(18)?5
(23)?5
(23)?3
(27)0
(32)2
(36)4
(39)?8
(18)
降水量 mm (inch)125
(4.92)90
(3.54)91
(3.58)54
(2.13)13
(0.51)9
(0.35)4
(0.16)6
(0.24)27
(1.06)72
(2.83)117
(4.61)105
(4.13)713
(28.07)
平均降水日数15.911.211.98.62.9212.13.89.815.214.999.3
平均月間日照時間251.1224238.7237275.9267285.2285.2282269.7249263.53,128.3
出典1:Hong Kong Observatory[14]
出典2:South African Weather Service[15]

地域
行政区分ヨハネスブルグの行政区分

A区

ディープスロート、ミッドランド、ランセリアなど


B区

ノースクリフなど


C区

ローデポールトなど


D区

ソウェトなど


E区

サントン、アレクサンドラなど


F区

インナーシティ(ヒルブロウ)など


G区

エンナーデール、オレンジファームなど


歴史1886年に最初に金脈が発見された農場
先史

19世紀半ばまでは、先住民族であるサン人の小さな集落のひとつにすぎなかった。
オランダ人の入植

1853年トランスヴァール共和国成立以降も、開拓のためオランダ系移民のボーア人が定住したとは言え、大きく変わるものではなかった。しかし、1886年ウィットウォーターズランド(『白水の峰』を意味するアフリカーンス語)の鉱脈が発見され、アフリカ各地からの移住者が増加した。一方、かねてより自国の南ア拠点であるケープ植民地の勢力伸長を狙っていたイギリスは、この機会をとらえて1890年セシル・ローズ率いる入植民部隊を南ローデシア(現ジンバブエ)に投入し、金鉱の利権を巡ってボーア人側との緊張を高めていった。

この結果として19世紀末から20世紀初頭にかけて戦われたボーア戦争において、イギリスはボーア人に勝利して金鉱をおさえた。ただ、その後、イギリス人とボーア人は和解し、黒人の権利を踏みにじりつつ鉱山労働などで酷使するアパルトヘイト政策(1948年?1994年)を施行していった。
アパルトヘイト時代

アパルトヘイト統治時代、市内はアフリカーナー(ボーア人)とイギリス系が住む白人居住区と、アフリカ系やカラードなど有色人種が住む黒人居住区に分断され、黒人の白人居住区への立ち入りを厳しく制限した。殊に、1959年のバントゥー自治促進法の公布にあたっては、ヨハネスブルグにおいてもアフリカ人居住地域ソフィアタウンが取り壊され、約6万人の住民が市域南部のソウェトに強制移住させられた。白人居住区にはさまざまな優遇政策が実施され、ソウェトの住民の不満は高まっていった。1976年に至り、学生を中心としたアフリカ系住民による大規模な暴動であるソウェト蜂起が勃発し、国内外に波紋を投げかけることとなった。この事件をひとつの契機としてアパルトヘイト政策は曲がり角を迎え、1994年にようやく全面廃止されるに至った。
アパルトヘイトの廃止後

この廃止を受けて旧白人・黒人居住区間の移動制限が撤廃されたため、1990年代には職を求めてアフリカーナー居住区に多くのアフリカ系とカラードが移住した。しかし現実には彼らのほとんどは職を得ることができなかったため、失業者による犯罪が多発し、市内の治安が極端に悪化していった。
21世紀

2000年に周辺の自治体と合併し、ヨハネスブルグ市都市圏が発足した。

2002年には「持続可能な開発に関する世界首脳会議」が開催された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef