ヨハネによる福音書
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『ヨハネによる福音書』は(1:1-5をプロローグと考えると)本文が1:6から始まっており[要出典]、最初の部分(1:6-12章)は洗礼者ヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活を描き、後半部分(13章-21章)は弟子たちに個人的に語った言葉(告別演説)とイエスの処刑にいたる経緯、イエスの復活までが描かれている。

共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について多く記され、重複記述が多く見られるが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されている。

ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明している。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものである。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。
著者詳細は「ヨハネ文書の著者」を参照11世紀のビザンチンの写本。挿絵は福音書を弟子プロクロス(左)に口述筆記させる福音記者ヨハネ(右)。

ヨハネによる福音書と呼ばれている通り、正統的なキリスト教会の伝統・伝承ではこの弟子はゼベダイの子使徒ヨハネであるとされてきた。詳細化された伝承においては、使徒ヨハネが最晩年エフェソスにおいて弟子プロクロスに口述筆記させたとする。しかし、19世紀以降、使徒ヨハネが第四福音書の著者であるという伝承に由来する意見は高等批評の立場に立つ学者たちの間では支持されなくなった。高等批評の解釈によれば、テキストから読み取れるのは、『ヨハネ福音書』が「イエスの愛しておられた弟子」とされる名の明かされていない著者によって執筆されたということだけである。
非神話化による執筆に用いられた資料詳細は「ヨハネによる福音書の資料」および「非神話化」を参照

非神話化を唱えたドイツの聖書学者ルドルフ・ブルトマン1941年に自著『ヨハネ福音書について』で提示した説によれば、『ヨハネ福音書』の著者はイエスの行った奇跡に関して共観福音書とは異なる資料、口述資料を用いているという。また批評学者は「イエスの愛しておられた弟子」の死について言及された21章は、聖書への補遺、付加部分であるとする[5]
独自性

サマリアの女、姦淫の女、マルタとマリア、ベタニアのマリア、マグダラのマリア、母マリアなど女性信徒が男性信徒よりも高く評価されており、その強調度合は同じく女性信徒を高く見る『
マルコによる福音書』を上回る[6]

他の福音書では名前しか出てこない使徒トマスが復活に懐疑的姿勢を見せたことを記述し、「不信のトマス」と呼ばれることに繋がった。宗教史学者のエレーヌ・ペイゲルスは、キリスト教トマス派を非難するために行われたものだったと主張している。

イエスは七度「私である(εγω ειμι)」と自分自身に言及する。

3章16節はキリスト教聖書の中でも引用される機会が多い文章で、聖書全体を要約するとこの文章になるという意味で、ミニバイブル(Mini Bible)と呼ぶ人たちもいる。

二つの「しるし」が数えられている。(2:11、4:54)

サタン悪魔、悪魔憑きにまつわる逸話、終わりのときの予言、山上の説教、倫理的な訓話などが一切ない。

1:39で「第10の時刻」として細かく時間が記されている。

ベトザタの池の水を天使が動かす」ということが5:3に記されている。

7:8-10でイエスは祭りにまだ行くつもりはないと言っているが、兄弟たちが行った後でひそかに行く。

13:3-16でイエスは弟子たちの足を洗う(過越祭の食事をとったという明確な記述がない)。

19:30でイエスはワインを口に入れる。これは共観福音書のイエスの言葉と矛盾する(マルコ14:25など)。

20:1でマグダラのマリアは一人で墓へ向かう。

マグダラのマリアは空の墓を二度訪れるが、そこで彼女はイエスの遺体が盗まれたと思い込む。二度目には天使を見ているが、天使たちもイエスの復活は告げない。天使たちはただ「なぜ泣いているのか」と尋ねるだけである。さらにマリアは近づいてきたイエスを園丁だと思い込んでいる。そのとき、イエスは「わたしに触れてはならない」という有名な言葉を残す(20:1-18)。その一方で、トマスに対しては自身の脇腹に指を入れて幽霊ではないことを確かめるよう促している。トマスはイエスを目の当たりにしてその復活を信じたため、実際にはイエスに触れることはなかったが、マリアに対する態度と比べると大きな差がみられる。

初期のキリスト教徒たちのあるものは「イエスの愛しておられた弟子」が不死であると信じていたようである。『ヨハネ福音書』の補遺箇所(21章20節以降)は、その弟子の死を説明するものとして書かれた可能性がある。

伝統的には使徒ヨハネであるとされている「イエスの愛しておられた弟子」の名前は本文中では決して明らかにされない。また、使徒ヨハネの名も本文中に一度も出てこない。「イエスの愛しておられた弟子」は、本文によれば、過越の食事を共にした弟子のうちの一人で、復活後のイエスがガリラヤ湖に現れた際に漁をしていた七人の弟子のうちの一人である。

ヨハネによる福音書においては”最上級形”を用いて「聖書に記載された以上の能力」の存在を予言している。

「まことに、まことに(?μ?ν ?μ?ν)あなたがたに告げます。私を信じる者は、私の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」(14:12)

「世界の支配者・世界の統治者」ヨハネの福音書にのみ登場する存在である。

 また、記述についての聖書の英訳。日本語訳において変遷や違いがある「この世の君」(昭和 ギデオン和訳)「この世を支配する者」(現行ギデオン和訳)the ruler of this world (ギデオン英訳)the prince of this world (churchofjesuschrist版) この存在についての追放、信託、受難についての和訳と英訳では解釈の違いがある。主な英訳は次のとおり12:31(ギデオン英訳)「31 "Now is the judgement of this world; now the ruler of this world will be cast out."」14:30(ギデオン英訳)「30 "I will no longer talk much with you, for the ruler of this world is coming, and he has nothing in me.」(従前ギデオン英訳 he has no claim on me.)16:11(ギデオン英訳)「11 "of judgement, because the ruler of this world is judeged."」
反ユダヤ主義との関係

1975年アメリカの新約学者 Eldon Jay Epp はヨハネによる福音書について、2世紀から現代に至るまでキリスト教徒の反ユダヤ主義を助長し、支えてきたとし、新約聖書の他のあらゆる書物よりも本書に反ユダヤ主義の責任があると結論づけた[7]

2013年ボストン大学神学教授で牧師のロバート・ヒルは著書 Beauty and Anti-Semitism: The Gospel of John の出版に際して、ヨハネ福音書を信仰者を勇気づけるものだとして評価しつつ、その激しい反ユダヤ的なレトリックについて指摘した[8]

ユダヤ系カナダ人でオタワ大学教授の聖書学者 Adele Reinhartz は2018年の著書 Cast Out of the Covenant: Jews and Anti-Judaism in the Gospel of John でヨハネ福音書が聴衆に置換神学的な思想を抱くように企図されたものだと述べた[9]

共観福音書においてイエスとその弟子たちの敵対者は「ファリサイ派」、「律法学者」などに特定されているが、ヨハネ福音書では単に「ユダヤ人たち (the Jews) 」とされている。イエスの十字架刑に賛同して叫び声を挙げるのも、共観福音書では人々、群衆となっているが、ヨハネ福音書ではユダヤ人となっている。

ヨハネ2:13では「ユダヤ人の過越祭 (The Passover of the Jews, または the Jewish Passover) 」という不自然な表現がみられる。過越祭はユダヤ人のものであって、ローマ人の過越祭とか、異邦人の過越祭というものはあり得ないからである。

成立時期が異邦人信仰者が既に増えている90年以降だということを考慮すると、少なくとも結果的には、異邦人の反ユダヤ感情を煽動するレトリックとなっている。つまり読者にとって、信仰者である自分たちとイエスの敵であるユダヤ人たちという対立軸があるかのような錯覚を与えかねない表現が全編に渡ってみられる。実際にはイエスもその家族や初期の弟子たちもみなユダヤ人である。

ヘレニズム思想との混淆

アメリカの作家スキップ・モエン博士はヨハネ1:1のロゴスの概念に着目し、それが本来のユダヤ的価値観とは相容れない、合理主義個人主義などのヘレニズム思想に立脚したものであり、キリスト教を混淆宗教としてしまったと論じた[10]。モエンはその論考を、ウィリアム・ダラントの次の言葉で締めくくっている。

「キリスト教は異教を破壊したのではなくて、取り入れた。死につつあったギリシア思想は教会の神学と祈祷書のなかで再生した。ギリシア語は何世紀にも渡って哲学を支配し、キリスト教の文献と典礼の伝達手段となった[11]
脚注^ M.ルター『新約聖書への序言』「新約聖書の正しい且つ最も貴重な書はどれであるか」(1522年)、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波文庫、1955年 ISBN 4003380819 所収
^ 田川建三『イエスという男』第二版 p.27
^ 例えば、G.タイセン『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館、2003年 ISBN 4764266369


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