ヨシフ・スターリン
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同指令によると、命令なしで自らの位置を離れた者は銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[注釈 15]

スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4000人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の疎開を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したといわれる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは内務人民委員部の建物であった。

戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民をともに撤退させた。このために両軍が撤退した後には荒廃した土地のみが残る結果となった。

スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。スターリングラードの戦い以降、ドイツ軍は守勢に立たされ東欧諸国は赤軍により解放された。1944年8月、赤軍の進行が近づいたポーランドのワルシャワではドイツ軍の支配に不満を持つ民衆がレジスタンスを結成していたが、赤軍は蜂起の好機と宣伝し、ワルシャワ市民に武装闘争を指令した。呼びかけに応じた市民は一斉にドイツ軍に立ち上がった。ところが直後に、赤軍はワルシャワ市の目前にして進撃を停止してしまう。公式には「補給の遅れ」が原因であるとされている。しかし、反ソ感情が根強いポーランドの亡命政府のレジスタンスを潰し、親ソ的な共産党政権であるルブリン政権に主導権を握らせたかったスターリンが仕組んだ意図的な陰謀であったという説もあり、未だ真相は不明である。ソ連の支援を得られなかったレジスタンス側はドイツ軍の反撃により壊滅し、多数の犠牲者を出す結果となった。赤軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。「ワルシャワ蜂起」も参照ベルリンのウンター・デン・リンデンに掲示されたスターリンの肖像。1945年7月3日

ジューコフは回顧録の中で、総司令官としてのスターリンを次のように描写している。

「私は上司としてのスターリンを徹底的に観察した。すべての重要な決定にはスターリンの決裁が必要であった。スターリンはいつも完全で明確な報告を要求し、不完全や憶測に基づく報告は許さなかった。そして、判断することは自分自身で行った。書類の間違いを見つけることには特殊な才能があり、不備を見つけると容赦しなかった。そのため、我々はスターリンに提出する書類はこれ以上ないというくらい綿密に準備した・・」そして「スターリンは、われわれのような専門家の意見を率直に聞く耳を持っていた。彼のこうした長所を認めないのは誤りだ」と結論している。このジューコフの回顧録が出版されたのはすでにブレジネフ時代で、スターリンを称揚することは時流に逆らう行為であった。

スターリンは独ソ戦勃発により、「敵の敵は味方」の理屈でアメリカ・イギリスとともに手を組み、連合国共同宣言に署名した。ソ連の戦争貢献の大きいことによりテヘラン会談に出席し、スターリンのソ連は米英ソ中で構成される「四人の警察官構想」の一員になったが、アメリカと近い関係にある?介石率いる中華民国の参加に対して否定的であった。

大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカイギリスと戦後の処理について話し合った。
対日参戦

戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは極東への野望を捨てていなかった。1943年10月30日夕刻、第3回モスクワ会談に参加したコーデル・ハル国務長官に対し、スターリンはドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた[294]。1945年8月、アメリカが日本の広島に原爆を投下した直後に、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を基に日ソ中立条約を一方的に破棄し、攻撃開始の直前に駐ソ日本大使に対して形だけの対日宣戦布告をし、日本および満洲国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。

その後英米ソなどの連合国に対して1国で戦っていた日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、日本軍の全ての戦闘行為は停止された。
領土の略奪と強制収容所

しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、日本の同盟国の満洲国と蒙古聯合自治政府への攻撃のみならず、南樺太と千島への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。スターリン自身は特に問題を感じておらず、別荘の居間に新しい世界地図を貼り、新国境線をパイプでなぞりながら「クリル諸島、サハリン全土、旅順大連、全てわれわれの所有物だ。何とすばらしい!」と悦に浸っていた[295]。また、スターリンは南樺太千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れた(トルーマンはこの提案を拒絶した)。

同年8月23日に「国家防衛委員会決定 No.9898」を発令し、これにより戦後に抑留された日本軍捕虜と日本の民間人は約57万から70万人とされる。これら日本軍捕虜や民間人をシベリアに抑留して強制労働に就かせたほか、日本企業の生産設備などをソ連国内に違法に運び去った。その上に英米軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部に対し、北海道全体と東北一帯の分割占領を提案したものの、これは即座に英米から拒否された。

政治記者の細川隆一郎は、スターリンが北海道を侵略する気であったことを察知したトルーマンが、スターリンに対して「もし、ソ連軍が北海道に侵略するようなことでもあれば、残りの原子爆弾をモスクワに投下する」と警告し、スターリンは北海道侵略を諦めたと主張している[296]

このような国際法さえ無視した蛮行により、ソ連は第二次世界大戦によって領土が大幅に拡大した。しかし、スターリンの領土に対する欲は収まらず、コーカサス地方の国境線に対して気に入らず、イラン進駐によって赤軍とイギリス軍が占領していたペルシア回廊でイギリス軍は撤収したのに対し、赤軍はイラン北西部からの撤兵を拒んで、1945年頃にイラン領アゼルバイジャンにアゼルバイジャン自治共和国クルド共和国という親ソビエト傀儡国家設立の反乱を支援し併合しようとした(しかし、1946年5月、両国とソビエト連邦で石油採掘契約が締結され後にソビエト連邦軍〈同年2月に赤軍から改称〉が撤兵すると両共和国はすぐに倒され、石油採掘権は取り消された)。また、スターリンは死ぬまで、かつてのロシア帝国トルコに割譲した領土の返還とかつて存在したアルメニア第一共和国の領土の併合をトルコに執拗に要求していた。

ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1921年、1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5 %以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシ等の旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアをはじめ旧ソ連圏における最も大きな祝日のうちの一つである。

独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣(後列中央はドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣とスターリン(右)

ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル(左)、フランクリン・ルーズベルト(中央)と共に(1945年)

ポツダムにて、クレメント・アトリー(左)、ハリー・S・トルーマン(中央)と共に(1945年7月)

ポツダム会談にて、チャーチル(左)、トルーマン(中央)と共に(1945年)


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