ヨシフ・スターリン
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ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[注釈 11]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤとともに粛清されている。

粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命をたどることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[272]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。

「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から1963年に行った秘密調査における数字ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。
スターリン憲法

1936年12月にスターリンは新憲法(スターリン憲法)を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた[273]。そして、「労働者の利益に従って」という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国としては世界初だった。

だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた[注釈 12]

なお、スターリン憲法はスターリンの死後に一部が改正され、1977年10月にレオニード・ブレジネフによって新憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正では大統領制複数政党制が導入され、一党独裁制は放棄された。最終的に、1991年12月の崩壊により、憲法は失効するに至った。
諜報部隊の補強

スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ赤いオーケストラ)・イギリス・フランス・日本・そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[274]

左から、モロトフ、スターリン、ヴォロシーロフ(1937年)

スターリンとゲオルギ・ディミトロフ(右)(1936年)

諸民族の強制移住詳細は「ソビエト連邦における強制移送」を参照

スターリンとベリヤは、極端な同質化を国内に求め、諸民族の自治や文化的違いを敵視し、少数民族を迫害した[275]。1930年代末には、ソビエト愛国主義とロシア愛国主義が融合し、ロシア民族とロシア帝国が後進民族に文明をもたらしたとする大ロシア主義が称揚され、少数民族はこの大ロシア主義を妨害するものとみなされた[275]
ポーランド人

1939年9月のポーランド侵攻後、分割占領線となるカーゾン線東部のポーランド人数十万人を中央アジアなどの辺境地へと強制移住させた。

1941年6月の独ソ戦の開戦後まもなく、スターリンはソビエトの地図に大きな影響を与えることになる膨大な規模にわたる民族の強制移動(en:Forced settlements in the Soviet Union)をNKVD長官のラヴレンチー・ベリヤに命じ、実行した。1941年から1949年までの間にソ連領内に住む少数民族約330万人がシベリアと中央アジア共和国へ強制移送されたと推定されている[276]

ポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、独ソ戦開戦後により対立が深まると、特に「敵性外国人」として標的とされたのは、ソビエト国内のドイツ系少数民族(ヴォルガ・ドイツ人)であった。分離主義、ソ連の支配に対する抵抗、侵攻してきたナチス・ドイツへの協力が、良かれ悪しかれ追放の表向きの理由として挙げられた。ドイツ人が占有する領域で過ごす人々の個々の事情は調べられることはなかった[277]
チェチェン人・クリミア・タタール人

チェチェン人イングーシ人(北コーカサスの同系民族)、バルカル人カラチャイ人クリミア・タタール人などの諸民族は、ソ連政府の農業集団化に反対した[275]。スターリンとベリアは、ナチスと協力したとして北コーカサス諸民族を非難し、1944年2月23 - 24日の夜に、チェチェン人とイングーシ人への急襲行動が開始された[275]。男女子供、共産党員、油田労働者、山岳住民を問わず、数日で一網打尽にされ、窓のない貨車につめこまれ、カザフスタンキルギスに強制移住させられた[275]。貨車は衛生状態も悪く、輸送中に多数が死亡。移住地に到着しても強制収容所と同様の惨状であり、チフスも流行し、チェチェン人とイングーシ人の全人口の40%にあたる数十万人が死んだ[275]

続けて1944年5月には、クリミア・タタール人も、中央アジアウラルに強制移住させられ、19万人のうち7万 - 9万人が死亡した[278]。クリミア・タタール人もチェチェン人とイングーシ人も「以前の居住地(故郷)に帰る資格はない」と共産党に通告された[278]

また、アラン・ブロックの説明では、ナチスによる短期間のカフカース占領後、山岳民族とクリミア・タタール人の全住民 ? 計100万人以上もの人々 ? が、自分たちの財産没収の通知も機会も得ることなく追放された[277]


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