ヨシフ・スターリン
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結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済力を有する基盤を作り出したと評されている[8]。      

一方で急速な経済構造の改革と、反対派に対する厳しい弾圧は国民に多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、ホロドモールへと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万人以上[9]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[9]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万人が処刑あるいは追放された[10]

1939年、ナチス・ドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化するなか、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[11]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割・バルト三国併合・東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国日本とも日ソ中立条約を締結した。

1941年6月、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連は、イギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加し、アメリカの連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされた。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの強権支配と反体制派の粛清を続け、軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都であるベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦モンゴル人民共和国の独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州・内モンゴルのほか、日本の北方領土南樺太38度線以北の朝鮮半島(現在の朝鮮民主主義人民共和国)を占領した。

連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[12][13]国際連合安全保障理事会常任理事国となり、アメリカ合衆国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[14]ヤルタ会談ポツダム会談では大戦後のヨーロッパ情勢についての協議を行い、冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義資本主義の対立においては西ヨーロッパ諸国と北大西洋条約機構を結成したアメリカに対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、1946年12月の第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、1950年6月の朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

1953年3月5日にクンツェヴォ・ダーチャにて病没するまで国家指導者としての立場は続き、ソ連国内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることから理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、原爆開発宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年8月のRDS-1で成功し、後者も後に実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。

スターリンの死後における権力闘争の過程で、ニキータ・フルシチョフらはスターリン派に対する批判を展開し、政敵となりうる政治局員を失脚に追い込んだ。その過程でフルシチョフが危険視していた政敵であるNKVD議長ラヴレンチー・ベリヤとその部下は銃殺刑に処せられた。1956年2月の第20回党大会においてフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、スターリンは偉大な国家指導者という評価から一転し、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を困難にしている。この流れはソ連の後継国に当たるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[15] と、英雄とみなす意見とが混在する状態にある[16]。なお、1944年から1955年までのソ連国歌には名前が入っていたが、スターリン批判を受けその次の国歌では名前がなくなっている。
初期の経歴 (1878?1917)
生い立ち


父のヴィッサリオンと母のケテワン

1878年12月18日ユリウス暦では12月6日[17]にグルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(グルジア語:????? ?????????? ?? ?????????)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語:Ио?сиф Виссарио?нович Джугашви?ли)として、ロシア帝国下のグルジアゴリに生まれた。父のヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[注釈 3]はゴリに工房を構える靴職人、母のケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった[19][20]。スターリンは両親の第3子であったが、2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた[21]

スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[21]


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