ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио?сиф Виссарио?нович Ста?лин、グルジア語: ????? ?????????? ?? ???????、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、1878年12月18日(ユリウス暦12月6日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家[1]。同国の第2代最高指導者 (1924年 - 1953年) [2][3]であり、 ソビエト連邦共産党中央委員会書記長(1922年 - 1934年)、ソビエト連邦人民委員会議議長・ソビエト連邦閣僚会議議長(1941年 -1953年)、ソビエト連邦国防人民委員・軍事大臣(1941-1945)などの役職を歴任し、ソ連邦英雄の称号を持ち、軍人としての最終階級はソ連邦大元帥である。民族的にはグルジア人。
1924年1月から1953年3月に渡って同国の最高指導者であった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」[注釈 2]を意味する筆名であり、本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語: Ио?сиф Виссарио?нович Джугашви?ли、グルジア語: ????? ?????????? ?????????)(#名前も参照)。 1878年12月18日、ロシア帝国統治下のグルジアのゴリで生まれた。正教の神学校で教育を受けるが[4]、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年10月に神学校を去って革命家へと転身した[5]。 その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握した後、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与した。ソビエト連邦の指導者であったレーニンが1924年1月に死去すると、その後継をめぐって起きたレフ・トロツキーとの権力争いを制し、自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派の粛清の大義名分としても用いられた。 以降は人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長、軍事大臣、前述の党中央委員会書記長などの要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった[6][7]。 1928年10月には戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)による合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。
概説