ヨシップ・ブロズ・チトー
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政治学上、ユーゴスラビアは東側諸国とも西側諸国とも見なされておらず、東西冷戦で起きた朝鮮戦争の際も中立的であり、中国国連代表権問題で抗議するソ連の不在のなかアメリカ合衆国の主導した国際連合安全保障理事会決議82国連軍の編成を要請した国際連合安全保障理事会決議84国際連合安全保障理事会決議85に反対せず、棄権した[6][7][8]

アメリカからマーシャル・プランも受け入れ[9]1953年にはギリシャトルコとの間で集団防衛を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構 (NATO) と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代はアメリカの相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットンM4中戦車M36ジャクソンM18駆逐戦車M3軽戦車M8装甲車M3装甲車M7自走砲M32 戦車回収車M25戦車運搬車GMC CCKWM3ハーフトラックM4トラクターデ・ハビランド モスキートP-47F-86F-84T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判ニキータ・フルシチョフが指導者になった時にソ連とも和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍のような国際連合平和維持活動にも参加した[12]。こうしたチトーの政治思想はスターリン主義者によってチトー主義と呼ばれ、他の社会主義国においては反体制派粛清の口実にもされた。

1960年代には独自の宇宙ロケット開発も計画し、アメリカはNASAの公式な視察団を送るなど支援したが、国家財政が逼迫したことから開発プログラム自体をアメリカに売却した。

1970年9月30日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領がユーゴスラビアを訪問。当時の東側諸国をアメリカ合衆国大統領が訪れるのは異例であったが、チトーは暖かく歓迎し会談を行った[13]
死去

1980年1月20日、循環障害により壊疽を起こした左足を切断する手術を受けるも、その後も体調は思わしくなく、腎機能障害肺炎、胃腸内出血、肝機能障害などを起こし、5月4日にスロベニアのリュブリャナの病院で没した。87歳没。

5月8日に行われたチトーの葬儀(英語版)には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり(弔問外交)1989年の昭和天皇大喪の礼まで当時史上最大の国葬だった[14][15]。日本からは大平正芳首相も出席した。チトーの国葬
死後生家近くに建てられたチトーの銅像(2007年5月撮影)

多民族による社会主義連邦国家において、チトーの作り上げた体制は絶えず分裂の引き金となりながらも、彼個人のカリスマ性と少数民族に配慮した政策によって、国内の民族主義者の活動は抑えられていた。それがユーゴスラビアを一つの統一国家に収斂させて秩序を安定させ、アメリカ合衆国ともソビエト連邦とも距離を置いた独自の立場を確立していたが、チトーの死後、カリスマを失ったユーゴスラビアの体制は崩壊へ向かうことになる。

チトー死去後、後継者達は彼のようなカリスマ性を発揮できず、インフレ失業率の上昇で経済も低迷し始め[16][17]、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義などが息を吹き返すことになる。冷戦集結後の1990年代には民族・宗教間の対立や混乱が激化し、1991年から2001年にかけて一連のユーゴスラビア紛争が勃発。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各共和国のうち、スロベニア社会主義共和国クロアチア社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国マケドニア社会主義共和国はそれぞれスロベニア共和国クロアチア共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦マケドニア共和国として独立し、残ったセルビア社会主義共和国モンテネグロ社会主義共和国によって1992年にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)が成立する。しかし、新ユーゴスラビアの成立後も紛争は続き、紛争終結後の2003年に新ユーゴスラビアはより緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行するが、2006年モンテネグロが独立したことで、もう一方のセルビアが独立宣言と継承国宣言を行ったことにより消滅し、連邦は完全に瓦解した。2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある金貨約2700枚(金塊30キログラム分相当)や貴金属製品約250個、現金約2万6000USドルなどが発見されている[18]
脚注・注釈[脚注の使い方]
脚注^ “ヨバンカ・ブロズさん死去、88歳 故チトー大統領の妻”. AFPBB News (2013年10月21日). 2020年12月19日閲覧。
^ ユーゴスラビア憲法は1946年の制定以来、1953年、1963年、1974年に改正された。
^ Lampe, John R.; Yugoslavia as History: Twice There Was a Country; Cambridge University Press, 2000 ISBN 0-521-77401-2
^ Ramet, Sabrina P.; The Three Yugoslavias: State-building and Legitimation, 1918?2005; Indiana University Press, 2006 ISBN 0-253-34656-8
^ Michel Chossudovsky, International Monetary Fund, World Bank; The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms; Zed Books, 2006; (University of California) ISBN 1-85649-401-2


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