ヨシップ・ブロズ・チトー
[Wikipedia|▼Menu]
エジプトナセルインドネルーらと会談。

1963年4月7日 終身大統領となる。

1980年5月4日スロベニアリュブリャナの病院で死去。

第二次世界大戦後、チトーはユーゴスラビアの首相(1944?1963年)、大統領(1953?1980年、1974年以降は終身大統領)、そしてユーゴスラビア人民軍の最高位であるユーゴスラビア元帥を務めた。彼はコミンフォルムの創設に携わった一人であるにもかかわらず、1948年にソビエトの覇権主義に反抗した最初のコミンフォルム会員となった。のちスターリンと決別し、自国の特異な自主管理社会主義を実践し、市場経済の導入も実施。識字率は90%を超え、無料の医療を受けられた。ブランコ・ホルヴァトを主体とした経済学者による「イリュリア・モデル」と呼ばれる市場社会主義を推進し、言論の自由を認め、半独立的な野党の結成を承諾した。

外交政策として、彼は非同盟運動を主導しインドジャワハルラール・ネルーエジプトガマル・アブデル・ナセルガーナクワメ・エンクルマインドネシアスカルノと共に、多くの国際決議で棄権を行った。

一部の歴史家、チトーの批判家は、彼を権威主義的な指導者と見なしており、チトー個人の崇拝を批判している。一方、チトー主義を信奉する人達、ユーゴノスタルジアを信奉する人達からは、統一の象徴としてチトーを尊敬している。他の研究家は、彼を開発独裁、慈悲深い独裁者だと見なす意見もある。
生涯
生い立ち

チトーは、オーストリア=ハンガリー帝国の構成国家であるクロアチア=スラヴォニア王国の領内、今のクロアチアの北西部、ザゴリェ地方 (Hrvatsko Zagorje) クラピナ=ザゴリエ郡のクムロヴェツで生まれた。父親のフラニョはクロアチア人で、母親のマリヤはスロベニア人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの小学校に入学し、1905年卒業している。

1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年冶金工の労働組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニア社会民主党にも加わっている。1911年から1913年にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。
従軍からロシア革命との出会いまで

1913年から、徴兵により兵役に就いており、1914年5月には、軍の主催するブダペストフェンシング大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。第一次世界大戦の勃発により、ヴォイヴォディナにあるルマ(現在はセルビア領)に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、ペトロヴァラディン要塞に収監された。1915年、再びロシアを攻撃するために、中央ヨーロッパガリツィア地方に送られた。ブコヴィナでは榴弾砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシア帝国艇庫の捕虜となった。

病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、チトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年7月16日から17日にかけて起きたペトログラードでの反政府デモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランド大公国まで逃げたが、結局捕まり、ペトロパブロフスクの要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。1917年11月、シベリアオムスク赤軍に参加した。1918年春には、ロシア共産党へ参加した。
党活動?第二次世界大戦第二次世界大戦中のチトー(右)「ユーゴスラビア人民解放戦争」も参照

1920年に帰国してユーゴスラビア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の「ディミトロフ」大隊の指揮官の一人として従軍した。チトーの最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が1941年の5月に生まれている。

第二次世界大戦中の1943年12月、ドイツ軍によるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、中道左派的な臨時政府の設立を宣言した。この間、チトーの活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、チトーのパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、チトーがスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリス軍アメリカ軍将校とたびたび険悪になった。戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収し、チトーら革命パルチザンらはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラビア人民共和国の初代首相にはチトーが選ばれ、国民議会幹部会議長(国家元首に相当)には、イヴァン・リヴァル (Ivan Ribar) が選出された。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦後はソビエト連邦からの自立を意図し、それを恐れたスターリンは1948年ユーゴスラビア共産主義者同盟コミンフォルムから除名する(チトー=スターリン決別(英語版))。翌年にはソ連との友好相互援助条約も破棄された。

その後、ソ連からチトーを狙う暗殺団が度々送り込まれるもチトーは秘密警察暗殺団を全て検挙させた。逆にモスクワのスターリン宛に電報を送り「刺客を送る用意がある」と揺さぶり、ソ連による衛星国化を諦めさせた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef