ユーロ
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ユーロ(記号: ?; コード: EUR)は 、欧州連合(EU)加盟27か国のうち20か国で公式に導入されている通貨である。ユーロが主要通貨として使われる国・地域はユーロ圏またはユーロゾーンとして知られており、2019年時点で約3億4,300万人の市民が暮らしている。補助単位はセントで、1ユーロは100セントに相当する。またユーロの補助単位としてのセントを特に別の通貨の補助単位としてのセントと区別するときにはユーロセントと呼び、ユーロセントの硬貨にも「EURO CENT」と表記されている。

世界経済においては国際通貨ハード・カレンシー)の一つとして扱われており[1]外国為替市場アメリカ合衆国ドル(米ドル)に次いで2番目の規模と取引をされている通貨である。
概要

ユーロはEUの各機関によって公式に使用されている。また、EU加盟国ではない4つの欧州の小国とモンテネグロコソボによって一方的に使用されている。欧州以外では、EU加盟国の多くの特別領土においても通貨として使用している。さらに、世界中で2億人以上の人々がユーロにペッグされた通貨を使用している。

ユーロは、米ドルに次ぐ世界第2位の国際通貨であり、取引高も世界第2位である。2019年12月時点、ユーロの流通総額は1兆3,000億ユーロを超え、ユーロ紙幣ユーロ硬貨を合わせて世界最大規模に達している。

ユーロという名前は1995年12月16日にスペインの首都マドリードで正式に採択された。1999年1月1日に、従来の欧州通貨単位(ECU)の1:1(1.1743ドル)比率での置き換えとして、国際金融市場に会計通貨として導入された。ユーロ硬貨と紙幣は2002年1月1日に流通開始され、ユーロは当初の参加国の日常業務通貨となり、2002年3月までに旧通貨から完全に置き換えられた。

ユーロは、その後2年間で0.83ドルまで下落した(2000年10月26日)。2002年末からは、2008年7月18日の1.60ドルをピークにドルを上回って推移している。

2009年末にユーロは欧州債務危機に陥ったが、その後、欧州金融安定ファシリティの創設など通貨の安定・強化に向けた改革につながった。
歴史
政治的な計画としてのユーロ

ヨーロッパに単一通貨が求められた理由は欧州統合欧州連合の歴史に見ることができる。すなわち、1968年関税同盟の結成による実体経済の統合と、ブレトン・ウッズ体制の崩壊による@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}為替相場の不安定化がもたらす通商政策への障害である[要出典]。

1965年、欧州通貨統合のイニシアティブがアメリカ合衆国国務省で開かれた会談でとられた[2]

1970年ルクセンブルクの首相ピエール・ヴェルネとヨーロッパの経済通貨統合の研究者が作成したいわゆる「ヴェルネ計画」では、単一通貨の導入に触れられていた。このヴェルネらの構想では1980年までに経済通貨統合を達成することがうたわれていたが、ブレトン・ウッズ体制の崩壊のために挫折を余儀なくされた。

それでも1972年には欧州為替相場同盟を、1979年には欧州通貨制度を創設した。欧州通貨制度は各国の通貨の相場が大きく変動することを防ぐものとなった。またあわせて欧州通貨単位が導入され、のちのユーロの基礎となった。欧州通貨単位の紙幣が発行されることはなかったが、硬貨については欧州通貨単位を具現的に見せるという目的で特別に鋳造された。欧州共同体の加盟国の中には欧州通貨単位の額面で債券を発行しており、証券取引所でも欧州通貨単位で取引がなされたりした。1988年、当時の欧州委員会委員長であるジャック・ドロールのもとで経済通貨統合を検討する委員会はいわゆる「ドロール報告書」を作成し、その中で経済通貨統合に向けて3つの段階を示した。
ユーロ構想の実現
導入に向けて

1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体の加盟国の間で資本の自由な移動が可能となった。1994年1月1日になると第2段階に移行し、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を検査するようになった。1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称を「ユーロ」とすることが決められた。
名称の決定

上述の欧州理事会で新通貨の名称が決定されるまで、多くの案が議論された。有力な案に「ヨーロッパ・フラン」があったが、フランのスペイン語表記である Franco がスペインの独裁者フランシスコ・フランコを連想させるために却下された。このほかにも「ヨーロッパ・クローネ」や「ヨーロッパ・ギルダー」といった案が出されていた。既存の通貨の名称を使うことで通貨としての連続性を示し、また新通貨に対する市民の信頼を固めようとした。さらに、一部の加盟国には従来の通貨の名称を残したいという希望があった一方で、決済通貨として使用されていた ECU(エキュもしくはエキュー) の名称がふさわしいと考える国もあった。しかしこれらの名称案はそれぞれに対して反対する国があり、特にイギリスは多くの名称案に反対して、いずれも採用されなかった。名称が定まらない中、ドイツの連邦財務相テオドール・ヴァイゲルは「ユーロ」という名称案を提示した。

通貨単位としてユーロという名称が刻まれた硬貨は、確認できる限りでは1965年に初めて鋳造されている。また1971年にはオランダで、ユーロと刻まれた硬貨の見本が製造されている。この見本ではユーロの先頭の文字がCに波線が引かれたものとなっていた。またその周囲にはラテン語で EUROPA FILIORUM NOSTRORUM DOMUS(日本語試訳:ヨーロッパはわれらの子たちの家である)と刻まれていた。
収斂基準と安定・成長協定

1992年に署名された欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階への移行、つまりユーロの導入にあたっては収斂基準を満たさなければならないとした。またテオドール・ヴァイゲルが主導した結果、1996年アイルランドの首都ダブリンで開かれた欧州理事会においてユーロ導入にあたっての2つの基準が定められた。さらに安定・成長協定ではユーロ導入国に対して、通常の経済情勢では財政の均衡を維持することを義務づけており、他方で景気が悪化している情勢では、経済の安定化のために単年度国内総生産(GDP)の3%を上限として国債の発行を認めている。累積債務残高については60%を上限としている。すなわち、収斂基準は物価の安定性・高すぎない長期金利・財政赤字および政府債務の健全性・為替の安定性の4つである。このうち為替の安定性に関しては、欧州為替相場メカニズム(ERM II)への参加が法的に求められている。この欧州為替相場メカニズムは、1979年に設立されたもともとのERMにかえて、1999年から実施されているERM IIと呼ばれるものであり、ERMとしては2番目のものである。このERM IIにおいて、ユーロに対する自国通貨の標準変動幅を2年間、上下15%の範囲とする必要がある。これを達成するとユーロ導入が認められ、ERM IIの対象から外れ、ユーロ導入となる。ただし、問題がある場合は期間が延長される。具体的には経済収斂基準とは次のようなものである[3]

物価:過去1年間、消費者物価上昇率が、消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を1.5%より多く上回らないこと。
財政:過剰財政赤字状態でないこと。(財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下)
為替:2年間、独自に切り下げを行わずに、深刻な緊張状態を与えることなく欧州通貨制度の為替相場メカニズムの通常の変動幅を尊重すること。
金利:過去1年間、長期金利が消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を2%より多く上回らないこと。[4] ? 日本国外務省「EUにおける通貨統合」

ギリシャ2002年に収斂条件を満たしたとしてユーロを導入したが、2004年11月、ギリシャがユーロ導入の決定がなされた時点で収斂基準を満たしていなかったということが判明した。ギリシャは実際の財政赤字を偽って欧州委員会に報告書を提出していた。しかし、条約・協定では基準違反を想定していなかったため、ギリシャが法的な責任を問われることはなかった。

また、ドイツやフランスなどの大国を含む一部の国々は、ユーロ加盟後に安定・成長協定で定める基準に抵触している。
決済通貨ユーロの導入

1998年12月31日、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨となった。このときユーロは欧州通貨単位に対して1:1で置き換えられた。翌1月2日イタリア証券取引所ミラノ)、パリ証券取引所フランクフルト証券取引所は通貨単位をユーロとして取引を開始した。


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