ユーゴスラビア
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フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている[13]

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

なおユーゴスラビア構成国のひとつであるマケドニア(現 北マケドニア)は上記の国とは違い、独立した際にユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現され比較的平穏に済んだ。
連邦共和国の成立詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国モンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年デイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグ旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。

一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。ユーゴスラビアの変遷↓(3)=ブルガリア公国↓(1)=ナチス・ドイツ、(2)=クロアチア独立国、(4)=ブルガリア王国オーストリア帝国  オーストリア=ハンガリー帝国      (1)    スロベニア共和国          (2)    クロアチア共和国              ボスニア・ヘルツェゴビナ  オスマン帝国  (3)    セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国  ユーゴスラビア王国  (4)  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国  マケドニア共和国                セルビア    セルビア王国        セルビア・モンテネグロ      コソボ  モンテネグロ公国  モンテネグロ王国            モンテネグロ |1860|1880|1900|1920|1940|1960|1980|2000
指導者
王国

すべてカラジョルジェヴィチ家
ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)

アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)

ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)

共産主義者同盟
ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1939年3月-1980年5月4日)

ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理

ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理


ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)

ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)

ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)

ミティア・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)

ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)

アリ・シュクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)

ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)

ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)

ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)

スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)

ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)

連邦人民共和国・社会主義連邦共和国
イヴァン・リヴァル
(1945年12月29日 - 1953年1月14日)

ヨシップ・ブロズ・ティトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領

ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)

ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)

セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)

ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)

ミカ・シュピリャク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)

ヴェセリン・ジュラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)

ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)

シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)

ラザル・モイソフ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)

ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)

ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)

ボリサヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)


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