ユーゴスラビア
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その中立的な立場から国際連合緊急軍[12] など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロマケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。

1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。

東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。
崩壊詳細は「ユーゴスラビアの崩壊(英語版)」を参照 「ユーゴスラビア紛争」も参照1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷

1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている[13]

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

なおユーゴスラビア構成国のひとつであるマケドニア(現 北マケドニア)は上記の国とは違い、独立した際にユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現され比較的平穏に済んだ。
連邦共和国の成立詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国モンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年デイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグ旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。

一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。


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