ユーゴスラビア
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ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り[9]、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットンM4中戦車M36ジャクソンM18駆逐戦車M3軽戦車M8装甲車M3装甲車M7自走砲M32 戦車回収車M25戦車運搬車GMC CCKWM3ハーフトラックM4トラクターデ・ハビランド モスキートP-47F-86F-84T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判ニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍[12] など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロマケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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