ユーゴスラビア
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1929年 - ユーゴスラビア王国

1943年 - ユーゴスラビア民主連邦

1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国

1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国

2003年2月5日 - セルビア・モンテネグロ独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史
王国の成立詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照ユーゴスラビア王国の国旗

第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビアモンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチアスロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチアスロベニアオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年1月6日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。国王アレクサンダル1世

国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユ暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後のユーゴスラビア政府はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認め、クロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。
第二次世界大戦

ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。

同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印した[6]が、翌4月6日朝にはドイツ国防軍イタリア王国ハンガリーブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始[7]4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した[8]

ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。

ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。

ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし、旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。
連邦人民共和国の成立詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗

大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年ユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り[9]、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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