ユーゴスラビア連邦共和国
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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人モンテネグロ人であるが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}両者は民族的・文化的にほぼ同一である[要出典]。モンテネグロ人の民族主義者[誰?]は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々[誰?]はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人マジャル人ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった[1]

ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家である[誰に?]認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々[誰?]はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々[誰?]は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。

2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロセルビアの両国はともに独立国となった[1]
歴史

1991年から1992年にかけてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊によって、セルビア共和国モンテネグロ共和国だけがユーゴスラビア連邦に残された。2国は連邦を維持することを決め、1992年に新しい憲法を制定した[1]。旧東側諸国における共産主義体制の崩壊を受け、共産主義体制は正式に放棄され、1990年に解体したユーゴスラビア共産主義者同盟の指導的地位は否定された。国旗からは赤い星が取り除かれ、社会主義的な国章も変更され、セルビアとモンテネグロの象徴の入った双頭の鷲の紋章に変更された。このほかの変更としては、警察の呼称がミリツィヤ(Милици?а / Milicija)からポリツィヤ(Полици?а / Policija)に改められ、2つの共和国はそれぞれの武力を持つとされた。新しい連邦はまた、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代の集団指導体制を廃止し、民主的に選ばれた単独の大統領制とし、民主的に選ばれた一つの議会を持つとされた。
ユーゴスラビア連邦共和国とユーゴスラビア紛争

ユーゴスラビア連邦共和国は、国際的な機関への参加資格を停止されていた。これは、1990年代に進行中であったユーゴスラビア紛争のためである。そのため、旧連邦の資産と責務、とくに国債の分配に関する合意の妨げとなっていた。ユーゴスラビア連邦共和国の政府は、1991年から1995年にかけての紛争で、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナで、それぞれの政府と戦うセルビア人勢力を支援していた。そのために、ユーゴスラビア連邦共和国は経済的・政治的な制裁下におかれ、国の経済は壊滅し、多くの若者が国外に流出した。

BBCのドキュメンタリー番組「Death of Yugoslavia」では、ユーゴスラビアの高官ボリサヴ・ヨヴィッチ(Borisav Jovi?)が、ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍ユーゴスラビア人民軍から分かれて組織されたことを明かした。これによって、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に伴って、そこに駐留していたユーゴスラビア人民軍は「外国の侵略軍」ではなくなり、ユーゴスラビアが侵略者として紛争に介入しているとする見方を回避した。この際、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍は、自力での資金拠出能力はなく、ユーゴスラビアから多量の装備と全ての資金を受け取っていた。さらに、セルビア急進党の党首で民兵組織「白い鷹」の創設者でもあるヴォイスラヴ・シェシェリは、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがシェシェリに対して民兵をボスニア・ヘルツェゴビナに送るよう私的に要請したと主張している。さらに、ボスニアのセルビア人軍を指揮していたのは、かつてのユーゴスラビア人民軍の指揮官ラトコ・ムラディッチであった。[2][3]。ムラディッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年のクロアチア紛争に従事し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での戦争犯罪の嫌疑でユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追されている[3]

1995年、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力を代表してアメリカ合衆国デイトンで和平交渉に臨み、その結果結ばれたデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した[3]
分離主義の動き

1996年、モンテネグロは、セルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の経済政策を始め、通貨としてドイツマルクを導入した[1]。その後のモンテネグロ政府は独立を目指した政策を採り続け、セルビアとの政治的緊張は2000年にミロシェヴィッチが失脚した後も続いた。さらに、アルバニア人民族主義者の武装組織が1996年ごろから暴力を次第に激化させていった[1]。ユーゴスラビア連邦国家の存続は政府にとって深刻な問題となった。
コソボ紛争

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コソボ紛争」および「コソボ地位問題」も参照

ミロシェヴィッチのセルビア大統領としての2期目の任期が切れると、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦大統領の選挙に出馬し、勝利した。ミロシェヴィッチが連邦大統領となったことによって、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦軍と治安部隊の直接の指揮権を獲得した。ミロシェヴィッチはこれらをコソボの分離主義の動きを抑えるのに使った。衝突は1996年から1999年にかけて激化して、コソボ紛争として知られる内戦へと発展した。

1999年3月から、アメリカ合衆国の指導のもと、北大西洋条約機構(NATO)がコソボ紛争に介入を始めた。


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