ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、主要民族(narodi)と少数民族(narodnosti)を区別して認識していた。主要民族にはスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、そしてモンテネグロ人とムスリム人があった。それ以外のマジャル人やアルバニア人などは少数民族とされた。
ユーゴスラビアを構成する6つの共和国それぞれに住む、主な民族は次の通りである:
スロベニア - スロベニア人
クロアチア - クロアチア人、セルビア人
ボスニア・ヘルツェゴビナ - ムスリム人、セルビア人、クロアチア人
セルビア - セルビア人、アルバニア人、マジャル人、ムスリム人
中央セルビア - セルビア人、ムスリム人
コソボ - アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ムスリム人、モンテネグロ人
ヴォイヴォディナ - セルビア人、マジャル人、スロバキア人、ルーマニア人、ルシン人、クロアチア人
モンテネグロ - モンテネグロ人、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人
マケドニア - マケドニア人、アルバニア人
また、このほかに民族自認として「ユーゴスラビア人」があった。これは、自身をユーゴスラビア全体に属するものと位置づけたい者によって使われ、民族間の混血によって生まれた者や、その地方では少数民族となる者などが「ユーゴスラビア人」を自認した。
経済「自主管理社会主義」も参照
ユーゴスラビアの経済システムは、はじめはソビエト連邦やその他の東側諸国と同様であったが、次第に差異が大きくなり、特に1948年のユーゴスラビアとソビエト連邦の決別後は大きく異なっている。企業は国家が保有するよりもむしろ、社員の協同組合が保有する形をとり、イスラエルのキブツのように、労働者による自主管理によって運営された[3]。ソビエト連邦や東側諸国とは異なり、ユーゴスラビアの社会主義経済は完全な計画経済ではなかった。第二次世界大戦におけるユーゴスラビア占領と解放闘争によって、ユーゴスラビアのインフラストラクチャーは壊滅的な損害を受けた。戦前のユーゴスラビアでもっとも発展していた地方でも田舎的であり、国内の産業は大きく損害を受けるか破壊された。
1960年代の経済復興にともなって、ユーゴスラビアの経済は大きく繁栄した。失業率は低く、労働力人口の教育水準は漸増していった。ユーゴスラビアの冷戦における中立と非同盟諸国における指導的な役割のため、ユーゴスラビアの企業は西側諸国、東側諸国の双方に製品を輸出した。ユーゴスラビアの企業はアフリカ、ヨーロッパ、アジアでの重要なインフラ整備や産業プロジェクトに携わったほか、「ユーゴ」(ザスタバ)をはじめとする自動車の輸出もヨーロッパやアメリカに行った。
ユーゴスラビアでは1960年代より出入国の自由が認められていたため、多くの労働者が西側諸国、特に西ドイツなどに出稼ぎ労働に行った。西側諸国への出稼ぎ労働は、ユーゴスラビアの失業率を低く保つ上で一役買っていたほか、新たな資金、外貨の獲得源ともなっていた。