ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
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スロベニア共和国
コソボ共和国
^ 統一されていたセルビア・クロアチア語は、ユーゴスラビア解体以降、セルビア語クロアチア語ボスニア語モンテネグロ語に分かれた。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[注釈 1](ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語セルビア語クロアチア語ボスニア語マケドニア語: Socijalisti?ka Federativna Republika Jugoslavija[注釈 2] / Соци?алистичка Федеративна Република ?угослави?а[注釈 3]スロベニア語[注釈 4]: Socialisti?na federativna republika Jugoslavija)は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビア社会主義国家
概要

第二次世界大戦前のユーゴスラビア王国の領域を元に結成され、1943年民主連邦ユーゴスラビアとして臨時政府の樹立[1]を宣言した。1945年11月の総選挙を経て、ユーゴスラビア連邦人民共和国[2]が成立し、翌年1月には新憲法を採択[1]。正式に社会主義国家として歩み始めた。1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。マケドニア社会主義共和国セルビア社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国クロアチア社会主義共和国スロベニア社会主義共和国モンテネグロ社会主義共和国の6つの国家からなる連邦国家である。

建国後はヨシップ・ブロズ・チトーの指導の下、冷戦下において中立政策を維持した。1960年代には、第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟運動の中核的な役割を果たした。しかしチトーの死後、1980年代から1990年代民族主義の伸張によって共和国間の政策不一致が進行し、民族間の不和と分断、暴力を伴った排斥の流れが進んだ[3]

結果、ユーゴスラヴィア主義のもとで一つにまとまっていた各民族は、冷戦終結によって各民族が独立を目指すユーゴスラビア紛争を経験した。特に民族構成が複雑だったボスニア(ムスリム48%、セルビア人37%、クロアチア人14%、その他1%)[4]では、激しい内戦となった。最終的にマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの4ヶ国が独立し、残ったセルビアとモンテネグロは連邦の維持を決定して1992年にユーゴスラビア連邦共和国を形成したが、2003年により緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行した後、2006年にモンテネグロが独立を宣言したことから完全に解体され、現在に至っている。

2008年以降、かつてユーゴスラビアであった地域には、北マケドニアセルビアボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアスロベニアモンテネグロの6つの国際連合加盟国、およびコソボがある。なお、コソボはセルビアの自治州から独立したがが、コソボの国家承認を行っていない国々からは、今もなおセルビアの自治州であるとみなされている。
領土

ユーゴスラビア王国同様に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はイタリアオーストリアと北西で、ハンガリーと北東で、ルーマニアおよびブルガリアと東で、ギリシャと南で、アルバニアと南西で国境を接し、西にはアドリア海に面している。

もっとも目立ったユーゴスラビア王国との領土の違いとしては、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1954年に隣接するトリエステ自由地域オージモ条約によって解体されたのに伴って、南部のユーゴスラビア軍の管理下にあった「B地区」に属する515.4平方キロメートルを領土としたことである。

1991年から1992年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の領土は、スロベニアクロアチアマケドニア共和国、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの独立によって大幅に減少した。これらが独立した後も、ユーゴスラビア軍はクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの一部に留まって占領を続けた。1992年、依然連邦に留まっていたセルビア共和国モンテネグロ共和国は連邦を維持することを決定し、ユーゴスラビア連邦共和国を結成した。
歴史
建国

第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国の支配下に置かれていた。枢軸側との戦いを進めていた共産主義者のパルチザンたちは、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第二回会合をボスニア・ヘルツェゴビナヤイツェ(Jajce)にて1943年11月29日から12月4日まで行った。民主連邦ユーゴスラビアは、このときのAVNOJの会合にて制定されたものである。一方で、枢軸国からロンドン逃れていたユーゴスラビア王国亡命政府との交渉も続けられた。パルチザンたちはゲリラ戦を主体として、枢軸国との苛烈な戦争を戦い抜いた。ナチス・ドイツが1945年に降伏すると、5月にはほぼ自力でユーゴスラビア全域を解放した[1]。なお、1944年10月には、ソ連軍との形式的な「合同作戦」が実施されている[1]1945年11月、総選挙が行われ、共産党が率いる人民戦線が大勝した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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