第一次世界大戦で敗れたオーストリア=ハンガリー帝国は解体し、チェコスロヴァキア、ハンガリー、「第一のユーゴ」、オーストリア共和国が「継承国家」として独立したほか、大幅な国境線の変更が生じた。諸国は共通して多民族の共住という課題を有したが、なかでも新生ユーゴスラヴィアは民族の多様性が顕著であった。しかしあくまで、南スラヴという「単一民族」が自決権を行使した「国民国家」という建前をとったことが特色である[3]。それゆえ国家の統合に困難を抱えることとなり、柴宜弘はこれを「擬制の「国民国家」」と表現している[3]。その一方で、南スラヴ統一(ないし汎スラヴ主義)の理念自体は長い歴史を有しており、単に人工的に作られた国家(モザイク国家)とは言えないことも確かである。
建国に至る直接のきっかけは第一次世界大戦にある。開戦時点の国境線に従えば、既に独立を果たしていたセルビア王国とモンテネグロ王国、ハプスブルク君主国内の南スラヴ人居住地域から構成された。後者にはオーストリア帝国領だったスロベニア人地域とダルマツィア、ハンガリー王国に属したクロアチア・スラヴォニアとヴォイヴォディナ、そして共同統治のボスニア・ヘルツェゴビナという多様な歴史と文化を有する地域が含まれていた。その中から戦中に「ユーゴスラヴィア委員会」と「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」という2つの政治アクターが形成される。
これら4つの政治主体のうちセルビア王国を核として、「コルフ宣言」(後述)に基づく南スラブ人統一国家の創設が進められた[3]。まずハプスブルク帝国の内部では、1918年10月にスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が成立する。他方では同年11月、モンテネグロ議会が自らの王朝を廃しセルビアとの合同を決議した。その上で翌12月、セルビア王国が「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家」を吸収する形で「第一のユーゴ」が建国された[4]。当時セルビアの領土であったコソボ、ヴァルダル・マケドニアもその領域内に組み込まれた[5][6][7]
政府は主にセルビア人によって運営され、非セルビア人勢力との対立が続いた[8][9]。1928年、非セルビア人の有力政党であるクロアチア農民党
(英語版)の指導者スティエパン・ラディッチが暗殺され、国内の政治的混乱は急速に深まった。翌1929年には国王アレクサンダル1世が憲法を停止し、国王独裁制を布告した[10][11]。国王は、国号を正式にユーゴスラビア王国に改称するとともに政治改革を断行し、事態の収拾を図った[10][11]。強大な権力を手中にした国王アレクサンダル1世は中央集権化を進めたが、1934年にマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した[10]。