ユーゴスラビア侵攻
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ヒトラーは、ハンガリールーマニアブルガリアに次いでユーゴスラビアに対し、日独伊三国軍事同盟へ参加するよう圧力を掛けていた。ユーゴスラビアの摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチは、1941年3月25日にこの圧力に屈した。しかしながら、このことは反枢軸であるセルビアの民衆と軍部の間に非常に強い不満を抱かせた。3月27日に反枢軸のセルビア人の陸軍士官達によってクーデターが引き起こされ、摂政パヴレは失脚し国王ペータル2世による親政となった。

この政治的混乱につけ入る形で、ユーゴスラビアに対する侵攻は開始された。

4月6日、枢軸軍はあらゆる方面から侵攻を開始し、ドイツ空軍はベオグラードへの爆撃を行った。ユーゴスラビアは隣接する国の大半から侵攻を受けた形となり、衆寡敵せず、ユーゴスラビアが4月17日に降伏するまでに要した日数は僅か11日であった。ユーゴスラビアはドイツ、ハンガリー、イタリア、ブルガリアによって分割され、セルビアの大部分はドイツによって占領された。ムッソリーニはクロアチアファシスト組織「ウスタシャ」の指導者アンテ・パヴェリッチを支持し、クロアチア独立国の成立が宣言された[1]
ユーゴスラビア軍の防御体制アメリカのプロパガンダ映画Why We Fightで描かれたユーゴスラビア侵攻図

第一次世界大戦の後に形成されたユーゴスラビア王国軍は、その当時の時代遅れになりきった武器や機材が依然として配備されていた。大砲は老朽化し、馬によって運ばれた。対戦車・対空用兵器は著しく不足しており、自動火器は十分な数が歩兵に対して供給されなかった。自動車化された部隊は一切無く、二個戦車大隊があるだけでその装備も110両のルノー FT-17 軽戦車のような旧式化した戦車を保有しているだけだった。ユーゴスラビア空軍も同様に弱体で、国産(主にIK-3)やドイツ製、イタリア製、フランス製、イギリス製の航空機を会わせて416機保有しており、新型の物はその約半数であった。

完全に動員されたならば、ユーゴスラビア陸軍は歩兵28個師団騎兵3個師団、32個独立連隊を保有していた。しかしながらドイツ軍の侵攻が開始された時点では未だ編成途中であり、予定された守備位置に配置されていたのは僅か11個師団のみであった。動員が完了しなかったため、部隊の補充率はおよそ70%から90%であった。ドイツ軍の進入が開始された時点でユーゴスラビア陸軍の戦力は約120万人であった。

ユーゴスラビア陸軍は3つの軍集団と沿岸守備隊で組織化された。第3軍集団は第3軍と第5軍から成り、アルバニア国境の防御を担当した。第2軍集団は第1軍、第2軍、第6軍から成り、鉄門からドラーヴァ川にかけての地域の防御を担当した。主にクロアチア人によって組織された第1軍集団は第4軍と第7軍から成り、クロアチアに配置された[2]

不十分な装備や不完全な動員といった問題を越えて、ユーゴスラビア陸軍をひどく悩ませていたのは国内の政治におけるセルビア人とクロアチア人の分裂であった。最も悪い表現で言えば、ユーゴスラビアの防衛は、1941年4月10日にクロアチア人の第4軍と第7軍が反乱を起こし、同日新しく成立したクロアチア人の政府がドイツ軍のザグレブ進駐を歓迎した時点ですっかり妥協してしまっていた[3]

事実上、内戦状態のユーゴスラビアに付け込んだ侵攻が成功するのは当然の成り行きといえた。
作戦
ベオグラード空襲

ドイツ第4空軍は7つのカンプグルッペ(戦闘団)を伴って、バルカン戦線 (第二次世界大戦)へと送られた[4]。ユーゴスラビアの挑戦的行為に激怒したヒトラーは、懲罰作戦(Strafgericht)の実行を命令した。4月6日の7時、ドイツ空軍は首都へ集中爆撃を行うことによってユーゴスラビアに対する戦端を開いた。オーストリアルーマニアの飛行場から交替で、手厚い戦闘機の護衛の下で300機の航空機が飛び立ち、爆撃を開始した。爆撃機の1/4がユンカース Ju87 スツーカであった[5]。主にDo 17ユンカース Ju88から成る中型爆撃機が都市を爆撃している間、急降下爆撃機はユーゴスラビアの対空兵器を沈黙させることになっていた。最初の急襲は、15分間隔で三波に分かれて行われ、それぞれおよそ20分間爆撃を行った。このようにして、都市はほぼ1時間半、爆弾の雨を受け続けることとなった。ドイツ軍の爆撃機は主な爆撃目標を主要な政府の建物が存在する都市中心部へと向けた。空爆で破壊されたベオグラード。

爆撃が終了した時点で、約1,000人の市民が瓦礫の下で犠牲となった。幕僚の大部分は何とか郊外に逃れることができたものの、この打撃はユーゴスラビアの最高司令部と戦場の部隊との意思疎通のあらゆる手段を実質的に破壊していた。

このように、敵の中枢部に致命的打撃を与えたことで、ドイツ空軍はその全力をユーゴスラビアの飛行場や連絡路、部隊の集中箇所といった軍事目標破壊に、そしてドイツ軍の地上部隊の近接支援に投入することができた。貧弱なユーゴスラビア空軍と不十分な対空装備はいとも簡単に排除され、ドイツ軍の急降下爆撃機は屋根の高さにまで降下してくるようになった。枢軸軍によるユーゴスラビア侵攻が始まったとき、ユーゴスラビア空軍は1940年の秋にドイツから購入した60機のDo 17Kを保有していた。この機種を装備していた唯一の航空部隊は2つの爆撃機部隊からなる第3爆撃機連隊であった。第63爆撃機部隊はスコピエ近郊の飛行場に、第64爆撃機部隊はプリシュティナ近郊の飛行場にそれぞれ配備されていた。戦闘中、クラリェヴォの航空機生産工場はなんとかもう3機のDo 17Kを生産することができた。2機は4月10日に、もう1機は4月12日にユーゴスラビア空軍に届けられた。ドイツ空軍は最初の攻撃において26機のDo 17Kを破壊した。最終的なユーゴスラビア空軍のDo 17K損失は49機にのぼり、4機が空中戦において、45機が地上で破壊された[6]4月14日から4月15日にかけて、残存するDo 17Kのうち7機がニクシッチ(Nik?i?)の飛行場へと飛び、国王ペータル2世とユーゴスラビア政府の要人達を乗せて彼らをギリシャへと避難させた。 この作戦には、ユーゴスラビアが保有する正貨のギリシャへの空輸という任務も含まれていた。この任務を終えた後、5機のDo 17Kがギリシャの空港でイタリア空軍の攻撃に遭い、破壊された。2機だけが破壊を免れ、後にエジプトへ脱出しイギリス空軍に加わった。4月15日の16時、ドイツ第4空軍の最高司令官アレクサンダー・レーア上級大将ヘルマン・ゲーリングから、ユーゴスラビアへの航空攻撃を縮小させ、急降下爆撃機の主戦力をギリシャ戦線の支援へと向けるよう命令を受けた[7]ドイツ空軍の爆撃機Do 17
ベオグラードに対する三方面からの攻勢

3つの別々の地上軍が、異なる方面からベオグラードへ進出した。詳細は以下の通りである。
第1装甲集団 (第12軍)

4月8日の朝早く、第一装甲集団はソフィア北西の集結地点から進軍を開始した。ピロト(Pirot)近郊の国境を通過した第14装甲軍団は第11装甲師団が先導し、第5装甲師団、第294歩兵師団、第4山岳師団が後に続いて北西のニシュの方面に向かって進軍した。悪天候、多数の路上障害物、ユーゴスラビア第5軍の激しい抵抗にもかかわらず、強力な砲兵隊と空軍の効果的な援護を受けた第11装甲師団は速やかに前進し、敵の防衛線を僅か1日で突破した。


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