ユーゴスラビア侵攻
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悪天候、多数の路上障害物、ユーゴスラビア第5軍の激しい抵抗にもかかわらず、強力な砲兵隊と空軍の効果的な援護を受けた第11装甲師団は速やかに前進し、敵の防衛線を僅か1日で突破した。ユーゴスラビア陸軍の司令官は、自軍にモラヴァの背後へと撤退するよう命じるほど、この最初の戦闘におけるドイツ軍の成功に強い衝撃を受けた。この撤退は、4月9日という早い時期にドイツ軍の戦車ニシュへと突き進み、すぐにベオグラードへ向けて進撃を続けたため、時期を逸する形になってしまった。ニシュ北西からは、ドイツ軍にとって地形はより好ましい物となった。モラヴァ谷を機甲部隊が縦隊で首都ベオグラードまで続けて進軍することができたのである。

パラチンの南とクラグイェヴァツの南西で、ユーゴスラビア第5軍はドイツ軍の進撃を止めようと試みるが、いくつかの激しい戦闘の後に総崩れとなり、ユーゴスラビア軍は5,000人以上の捕虜をこの僅かな期間に出す結果となった。

一方で、第5装甲師団はピロト近郊の状態の悪い道路の影響で一時的に遅れをとった。再び進軍を開始した後、師団は、ニシュの南方へと転進しLeskovac周辺の敵軍を殲滅するようにとの命令を受けた。ニシュ方面の前線でユーゴスラビア軍が崩壊寸前であることが明らかになると、第5装甲師団は第12軍の直属に戻され、ギリシャ戦線のために第40装甲軍団へ加わった。

4月10日、第14装甲軍団はモラヴァ谷を通って順調に前進しており、首都へと退却する敵軍の部隊を近距離で追跡していた。翌日、ドイツ軍の先鋒は突然、退却中のユーゴスラビア第6軍の南の側面部隊に攻勢を掛け、4月12日の早い時間帯のうちにこれを壊滅させた。その日の夜までに、第1装甲集団はベオグラードから40マイル以内の位置にまで進出した。彼らが遭遇した2つのユーゴスラビア軍の部隊は、最早ドイツ軍の進撃を遅らせるいかなる手段をも持っておらず、ドイツ軍がユーゴスラビア領に侵入した地点から現在地に至る125マイルにも及ぶ連絡線を遮断する手段もまた、一つとして持っていなかった。
第41装甲軍団 (独立部隊)

南東からの第14装甲軍団の攻撃と同時刻になるように調整されて、第41軍団はバナトの南東部分に攻勢を掛け、そしてベオグラードへと部隊を先導していった。この攻撃は“自動車化歩兵連隊グロースドイッチュラント”が先頭に立ち、そのすぐ後を第2SS自動車化歩兵師団が続いた。ヴルシャツ(Vr?ac)の北の国境を通過した後、先発の部隊は4月11日パンチェヴォ(Pan?evo)へと到着した。一方、ベオグラードの北方約45マイル以内の所まで進出してきた第41装甲軍団の主力は次の日に僅かに散発的な抵抗を受けるのみであった。これは、敵軍が首都ベオグラードまで速やかに撤退していったためであった。
第46装甲軍団 (第2軍)

ドイツ空軍4月6日に攻撃を開始したとき、ドイツ第2軍は丁度ユーゴスラビア北方の国境で戦力を集結させている最中であり、予定されていた作戦の開始は4月10日へと遅らされた。彼らの作戦開始時期の遅れを取り戻すための努力の1つとして、いくつかの第2軍の部隊は国境沿いに目的を限定した攻撃を開始することによって作戦開始までの一時的な時間を利用した。部隊の指揮官は彼らの部隊が大きな戦闘を早まって起こさないために制御せねばならなかった。そしてそのことはその後の軍隊の行動の自由を損なわせ、作戦の指揮を危うくさせたかもしれなかった。

陸軍総司令部は第46装甲軍団が受け持つ地域の主要なを無傷のまま確保することを決意していた。したがって、既に4月1日という早い時期には、部隊はBaresの橋とコプリヴニツァ(Koprivnica)の10マイル北方にある鉄道橋を確保し占領するようにとの命令を受けていた。

4月6日の夕方頃までには、敵軍の抵抗の不足と全体の状況はユーゴスラビアが国境沿いに置いて断固とした姿勢をとらないであろうということを示しており、第46装甲軍団はムルスコ・スレディシュチェ(Mursko Sredi??e)、レテニャ(Letenya)、ザーカーニ(Zakany)、バーチ(Barcs)においてムール川ドラーヴァ川の全域で橋頭堡を確保するようにとの命令を受けた。いくつかの局地的な攻撃の実行は、敵軍の兵士達の間で不和を生み出すのには十分なものであった。この地域の防衛を受け持っていたユーゴスラビア第4軍の部隊の兵士は、クロアチア人の割合が高かった。クロアチア人の兵士はドラヴァの突出部のいくつかの地点で反乱を起こし、彼らがセルビア人の抑圧からの解放者と見なしたドイツ軍への抵抗を拒絶した。4月10日の朝、強力なドイツ軍がBaresのドラヴァ橋を渡り、以前に確立した橋頭堡から抜け出したとき、対峙するユーゴスラビア軍の崩壊はより深刻な段階へと向かっていた。強力な航空支援に援護され、第8装甲師団とそれに続く第16自動車化歩兵師団を主力とする第46装甲軍団は首都ベオグラードを目指し、攻撃をドラヴァとサヴァ川の間にかけての南東部へ仕掛けた。 第8装甲師団は、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けないまま快調に進撃し、悪天候や舗装が不十分な道路にもかかわらず同日の22時までには師団の先鋒がSlatingに到着した。敵の孤立した軍団は速やかに掃討され、師団はオシエクを通って首都へと進撃を続けたが、道の状態は更に悪くなっていた。

敵がますます苦境に陥り、必死になっていたことはドゥシャン・シモヴィッチ(Du?an Simovi?)大将が彼の率いる部隊に放送した次の演説からも窺い知ることができる。"全ての兵士は、たとえ何処で敵と遭遇しようとも、自らの裁量の上でいかなる手段を用いても敵と交戦せねばならない。上からの直接の命令を待つのではなく、諸君が自らの判断、イニシアティブ、分別に導かれて行動しなければならない。"

4月11日には、第16自動車化歩兵師団がクロアチアのナシツェ(Na?ice)を越えて更に進んでいるとき、第8装甲師団はオシエクに到着した。両師団に与えられた任務は第14装甲軍団と対峙しているユーゴスラビア軍の側面を突き、また早期に第1装甲集団との連絡を確立することであったが、多数の破壊された橋と状態の悪い道路は両方の師団の進撃速度を遅らせた。

4月12日の2時30分、サヴァ川にかかる2つの極めて重要な橋が無傷で確保された後、第8装甲師団はMitrovicaに突入した。師団は攻撃を続け、ベオグラードから約20マイル南のラザレヴァツ(Lazarevac)へと進撃した。そこは第1装甲集団との連絡地点として指定された場所であった。

4月12日の午後に第46装甲軍団は新たな命令を受けた。この命令によると、第8装甲師団だけがベオグラードの西の郊外に近いサヴァ川の安全を確保するために東方への攻撃を続けることになっていた。18時30分に、師団の主力は南東へと向かい、ベオグラード南西の第1装甲集団の左側面部と連絡を確立するためヴァリェヴォ(Valjevo)方面へ進出した。 同時に、第8装甲師団に後れを取っていた第16自動車化師団は南へと向きを変え、サヴァ川を渡ってズヴォルニク(Zvornik)へ進出した。このように、両師団は後のサラエヴォへの攻撃に参加するため、元々の目的であったベオグラードからは転進させられた。

一方で、第2軍と陸軍総司令部はベオグラード陥落のニュースを心待ちにしていた。3つの集中している機甲部隊のうち、第XLI装甲軍団が首都に最も近いと最終的に報じられており、首都から約10マイルのドナウ川東岸のパンチェヴォ(Pan?evo)に到着していた。ベオグラードの南での抵抗は第一装甲集団の先鋒である第11装甲師団が首都の近郊に進出してきたため、強固になっていた。
ベオグラード陥落破壊されたユーゴスラビア軍の ルノー FT-17 軽戦車

3つの別々の軍団が同時にベオグラードに集まってきていたため、陸軍総司令部はどの部隊が最初に敵国の首都に到達するかをすぐに決定することはできなかった。4月12日の夕方にかけて、第2自動車化歩兵師団フリッツ・クリンゲンベルクSS中尉ドナウ川の橋が全て破壊されているのを発見し、拿捕したゴムボートSSによる川の哨戒を行った。クリンゲンベルク率いる武装SS隊員11名はドナウ川を渡ってベオグラードに入り、17時にはドイツの公使館の上に鉤十字旗を掲げた。クリンゲンベルクはユーゴスラビア当局に抑留されていたドイツ外務省の代表を解放し、約2時間後、ベオグラード市長から正式に降伏を取り付けた。

第2軍の司令部では、第8装甲師団からは24時間何の報告も受けずにいた。先立って第8装甲師団はベオグラードの西の郊外に近づいているという報告がなされていた。遂に4月13日の11時52分、以下のラジオメッセージが師団の作戦将校から届けられた。

夜の間に第8装甲師団はベオグラードに突入し、都市の中心部を占領して鉤十字旗を掲げるに至った。

しかしながら、より良好な通信が第2軍と第1装甲集団の間に存在したため、以下の速報が第8装甲師団のメッセージが入るよりも若干早く届けられた。:

クライストの装甲軍団は南からベオグラードへ侵入した。自動車化歩兵連隊“グロースドイッチュラント”の武装親衛隊は北から都市へ入った。クライスト大将を先頭に、第11装甲師団は午前6時32分に首都へ入っていた。

このように、ベオグラードを巡る競争は、3つの軍集団がほとんど同時期に目標に到達するという際どい結果に終わった。首都の陥落により、残存ユーゴスラビア軍の追跡と最終的な破壊という次なる段階の作戦のために第46装甲軍団が装甲集団の直接の指揮下に置かれる間、第1装甲集団は第12軍から第2軍へと移された。
損害

ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻で生じた被害は両軍ともに予想外に軽い物であった。12日間の戦闘によって生じた損害は計558人で、戦死151人、戦傷392人、行方不明15人であった。例えば、第41装甲軍団によるベオグラード突入による死者は、民間人の狙撃手の弾丸によって死んだ1名のみであった。

ユーゴスラビア軍の死者も数千人程度に過ぎず、戦争そのものの規模が限定的だったことを物語る。一方でユーゴスラビア軍の多くは戦わずあっさりと降伏したために、ドイツ軍は254,000人から345,000人ものユーゴスラビア人捕虜を得た。イタリア軍は30,000人の捕虜を得た[8][9]
結果

政府を失ったユーゴスラビア各地は枢軸国に分割占領された。また、一部の地域には傀儡政府が建設され、枢軸国の間接統治下に置かれた。

セルビア - ドイツに占領され、傀儡政権であるセルビア救国政府が設置された。

スロベニア - ケルンテン・クライン民政地域(de)及び下シュタイアーマルク民政地域(de)に分割された上で、それぞれが隣接する旧オーストリアに設置された帝国大管区に併合され、大ドイツの一部として扱われた。


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