ソビエト連邦の指導者、ヨシフ・スターリンは、この11月の第2回会合を事前に知らされておらず、このことに激しく怒り、ティトーがAVNOJを臨時政府としたことを否認したが、西側の連合国は、ユーゴスラビアにおいて実質的にドイツ軍と戦っている唯一の勢力がパルチザンであることを理解しており、ティトーの行動に異議を唱えなかった。
1943年12月、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルはスターリンと共に、パルチザン支援を決定した。イギリスは1箇月後に合流し、直後にチェトニックへの支援を中止した。アメリカ合衆国は、不時着した自国の操縦士のチェトニックによる継続的な救出に報いるために、彼らへの支援を続けた。
1944年5月、ドイツ空挺部隊がドルヴァル(Drvar)にあるティトーの司令部を襲撃し、あわや捕獲されそうになった。ティトーはイタリアに脱出し、アドリア海に浮かぶヴィス島に新しい司令部を設立した。イギリスは、パルチザンへの全面支援を始めてからは、ティトーと国王ペータル2世の信頼回復のために努めた。国王はユーゴスラビア国外に留まることに同意し、9月には全てのユーゴスラビア人にパルチザンへの合流を命じた。
関連項目
モシャ・ピヤーデ
ミロヴァン・ジラス
参考文献^ a b 柴宜弘『バルカン史 - 世界各国史』山川出版社、日本、東京、1998年10月。ISBN 978-4634414808。
^ “ ⇒Odluka II zasedanja AVNOJ-a o organizaciji Jugoslavije na federativnom principu”. Arhiv Jugoslavije. 2009年9月閲覧。
外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議に関連するカテゴリがあります。ウィキメディア・コモンズには、ユーゴスラビア・パルチザンに関連するカテゴリがあります。
⇒The AVNOJ-Regulations and the Genocides of the Germans in Yugoslavia between 1944 and 1948 - .pdf document
⇒Post-War Yugoslavia
⇒Declaration of AVNOJ 2nd meeting
表
話
編
歴
ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議
スロベニア人民解放委員会
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モンテネグロ人民解放国家反ファシスト委員会
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