ユリシーズ・S・グラント
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荒野の戦いスポットシルヴェニアの戦いコールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都リッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンドおよびピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上して、さらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。

リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)、グラント率いる北軍に捕捉され、アポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これにより、その流れに合わせるように残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。

戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に3つ星を中将位に改め[注釈 2]、4つ星の陸軍大将(当時の呼称はGeneral of the army of the United States)に任命し、その労をねぎらった。
大統領職グラントメモリアルの立像。妻のジュリアはポケットに手を入れた仕草が夫をよく表していると語った。

グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会において、満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選挙では、合計5,716,082の投票中3,012,833票 (52.7%) を得票し勝利した。

グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠はないが、犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後でさえ強く反応しなかった。

さらに、荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、グラントの支持は急落した。

1872年3月3日、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。
インディアン政策

グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であったが、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。

1860年代後半から、知人であったインディアンイロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けも、インディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。

このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を、武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った。

また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。
内閣

職名氏名任期
大統領ユリシーズ・グラント1869年 - 1877年
副大統領スカイラー・コルファクス1869年 - 1873年
ヘンリー・ウィルソン1873年 - 1875年
国務長官エリフ・B・ウォッシュバーン1869年
ハミルトン・フィッシュ1869年 - 1877年
財務長官ジョージ・バウトウェル1869年 - 1873年
ウィリアム・リチャードソン1873年 - 1874年
ベンジャミン・ブリストウ1874年 - 1876年
ロト・モリル1876年 - 1877年
陸軍長官ジョン・アーロン・ローリンズ1869年
ウィリアム・シャーマン1869年
ウィリアム・ワース・ベルナップ1869年 - 1876年
アルフォンソ・タフト1876年
ジェイムズ・ドナルド・キャメロン1876年 - 1877年
司法長官エベニーザー・ロックウッド・ホアー1869年 - 1870年
エイモス・タッペン・アケルマン1870年 - 1871年
ジョージ・ヘンリー・ウィリアムズ1871年 - 1875年
エドワーズ・ピアポント1875年 - 1876年
アルフォンソ・タフト1876年 - 1877年
郵政長官ジョン・クレスウェル1869年 - 1874年
ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル1874年
マーシャル・ジュウェル1874年 - 1876年
ジェイムズ・ノウブル・タイナー1876年 - 1877年
海軍長官アドルフ・ボリー1869年
ジョージ・ロブソン1869年 - 1877年
内務長官ジェイコブ・ドルソン・コックス1869年 - 1870年
コロンバス・デラノ1870年 - 1875年
ザカリア・チャンドラー1875年 - 1877年
農務長官ホーレス・ケプロン1869年 - 1871年

大統領退任後グラントが描かれた50ドル紙幣。(Series 2004)

大統領職2期目の終了後に、グラントは2年間世界中を旅行(英語版)した。最初の訪問地はイギリスで、1877年のことだった。1879年5月28日には天津に到着し、6月12日には琉球処分への対応をめぐって李鴻章と対談した。同年7月3日から同年9月3日まで国賓として日本に滞在、横浜港に入港し、8月20日に浜離宮明治天皇と会見し歓待を受けた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。

グラント元大統領夫妻は、滞在中の8月25日に東京の上野公園で行われた歓迎式典に出席、妻ジュリアとともに来日記念に檜を植樹している[注釈 3]増上寺では松を植樹した。また、日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった[要出典]。

1883年全米ライフル協会の第8代会長に選ばれた。

1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。


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