ユリシーズ・S・グラント
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南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の10日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに自身が募った志願兵を連れて到着した。リチャード・イェイツ(英語版)知事はグラントを反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後、グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州へ派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン(英語版)知事は武装中立を宣言して、州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。

同年8月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フレモント少将によりヘンリー・ハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる。

1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦いドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる。

10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月4日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。

リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェルマクレランフッカーバーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる。

1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。

西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。

一方でグラントは、人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始した。荒野の戦いスポットシルヴェニアの戦いコールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都リッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンドおよびピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上して、さらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。

リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)、グラント率いる北軍に捕捉され、アポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これにより、その流れに合わせるように残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。

戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に3つ星を中将位に改め[注釈 2]、4つ星の陸軍大将(当時の呼称はGeneral of the army of the United States)に任命し、その労をねぎらった。
大統領職グラントメモリアルの立像。妻のジュリアはポケットに手を入れた仕草が夫をよく表していると語った。

グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会において、満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選挙では、合計5,716,082の投票中3,012,833票 (52.7%) を得票し勝利した。

グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠はないが、犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後でさえ強く反応しなかった。

さらに、荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、グラントの支持は急落した。

1872年3月3日、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。
インディアン政策

グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であったが、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。

1860年代後半から、知人であったインディアンイロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けも、インディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。

このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を、武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った。

また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。
内閣

職名氏名任期
大統領ユリシーズ・グラント1869年 - 1877年
副大統領スカイラー・コルファクス1869年 - 1873年
ヘンリー・ウィルソン1873年 - 1875年
国務長官エリフ・B・ウォッシュバーン1869年
ハミルトン・フィッシュ1869年 - 1877年
財務長官ジョージ・バウトウェル1869年 - 1873年
ウィリアム・リチャードソン1873年 - 1874年
ベンジャミン・ブリストウ1874年 - 1876年
ロト・モリル1876年 - 1877年
陸軍長官ジョン・アーロン・ローリンズ1869年
ウィリアム・シャーマン1869年
ウィリアム・ワース・ベルナップ1869年 - 1876年
アルフォンソ・タフト1876年


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