ユニバーサル・ピクチャーズ
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こうして彼はスター・システムの形成に成功した。1910年、それまでバイオグラフ・スタジオ(Biograph Studios)の映画に出演し単に「バイオグラフ・ガール」と呼ばれていた女優フローレンス・ローレンスの宣伝を手掛け、アメリカの映画会社として初めてスター俳優の名を映画のマーケティングに使用することとなった。

1912年6月8日、レムリはIMP社とその他8つの中小映画会社を合併し、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(Universal Film Manufacturing Company)を設立、ここではじめて「ユニバーサル」の名が登場する。レムリは、マーク・ディンテンファス(Mark Dintenfass)、チャールズ・バウマン(Charles Baumann)、アダム・ケッセル(Adam Kessel)、パット・パワーズ(Pat Powers)ら共同経営者らの中でも代表的な人物であり、最終的には彼ら全員の株を買い取り追放した。このユニバーサル社は映画館は持たなかったものの複数の映画製作業者と映画配給業者が水平統合を行ったものであり、1925年には有限責任の会社組織となりユニバーサル・ピクチャーズ・カンパニー(Universal Pictures Company, Inc.)へと発展する。
ユニバーサル・シティの建設現在のユニバーサル・シティ。オープンセットを作るための広大なバックロットがスタジオ裏に広がる

1910年代、アメリカ東部にあった独立系映画会社がエジソンの追及から逃れて西海岸に移転する動きが強まる中、1912年末にはユニバーサルもハリウッド周辺での映画製作に集中した。この時期に採用した最初のロゴは「地球の周りをとりまく輪に、太いケンタッキー体の文字で社名を表記する」というもので、すでに今日のユニバーサルのロゴにつながるデザインであった。1915年にはレムリは世界最大の映画撮影所である広さ230エーカー(0.9平方km)のユニバーサル・シティ・スタジオを、ハリウッドの町からカフエンガ峠を越えたところにあるサンフェルナンド・バレー地区の牧場に開設した。これが新しい町ユニバーサル・シティの始まりでもある。他の映画会社と異なり、レムリのスタジオは観光客の見学を歓迎し、今日のユニバーサル・スタジオ・テーマパークにつながっている。ユニバーサルのスタジオはハリウッドでも最大であったが、その製作する映画はほとんどが小さな町の観客を相手にしたメロドラマ西部劇連続活劇などの低予算映画であった。

レムリの映画業界に果たした役割は革新者であったが、彼の経営姿勢はきわめて慎重であった。パラマウント映画の創始者アドルフ・ズッカー(Adolph Zukor)、20世紀フォックスの創始者ウィリアム・フォックス(William Fox)、MGMの創始者マーカス・ロウ(Marcus Loew)らと異なりレムリは全米の劇場網を作らなかった。レムリはまた自社の映画全ての資金集めや出資をおこない、借金をすることを拒んだ。この方針は、同社が起用した俳優・映画監督エリッヒ・フォン・シュトロハイムが『悪魔の合鍵』や『愚かなる妻』などの諸作にきわめて贅沢な製作費を注いだことで破綻しかけたが、ユニバーサルは扇情的な宣伝を行って観客を集め、巨額の製作費の一部を抜け目なく回収した。次作の『メリー・ゴー・ラウンド』(1922年)ではついにユニバーサルと衝突したシュトロハイムは製作途中で追放された。1920年代のユニバーサルにおいては性格俳優ロン・チェイニーが大人気スターとなり、特に劇映画で活躍した。彼がユニバーサル時代に放ったヒット作には『ノートルダムのせむし男』(1923年)『オペラの怪人』(1925年)があり、後のホラー映画に大きな影響を与える。レムリはこの時期、製作方針の決定を「天才少年」と呼ばれたプロデューサー・アーヴィング・タルバーグ(Irving Thalberg)に任せていた。タルバーグはレムリの個人秘書として映画業界に入ったが、撮影所をどのように効率的に運営するかというタルバーグの洞察にレムリは圧倒され、撮影所長に抜擢した。タルバーグは適正な脚本に適切な俳優とスタッフを起用し、サイレント映画時代のハリウッドには他に類を見ないほどの効率的で収益の高い映画製作をもたらし、『ノートルダムのせむし男』などの大成功の功労者となった。より多額の支払いを約束したライバルのルイス・B・メイヤー(後のMGMの創始者)は1924年にタルバーグの引き抜きに成功し、タルバーグの導きを失ったユニバーサルはその後数十年間、二流のスタジオの地位に甘んじる。大手映画スタジオ(メジャー)のうち、5大メジャー(ビッグ・ファイブ)と呼ばれる、スタジオ経営から映画館網の所有までの垂直統合を成し遂げた5つの大手映画スタジオに対して、ユニバーサル、コロンビア映画ユナイテッド・アーティスツの3社は独自の映画館網を持たないためメジャーの中でも一段低い位置にあり、「リトル・スリー」と称されていた。

1926年、ユニバーサルはドイツに新たな映画撮影所、ドイツユニバーサル映画(Deutsche Universal-Film AG)を設立し、ジョー・パスターナク(Joe Pasternak)が製作を指揮した。この製作班は1936年にナチス支配の強まるドイツからハンガリーへ、さらにオーストリアへと移転し最終的に消滅するまでの間に、年3本から4本の映画を製作している。トーキー映画の登場後、彼らはドイツ語をはじめとしてハンガリー語ポーランド語による映画を製作している。ユニバーサルはドイツ子会社の製作映画をアメリカ本国で配給することはなかったが、ニューヨークなどにあった独立系配給業者や外国語映画配給業者に売って英語字幕なしで公開させている。
アニメーション映画製作とディズニーとの係争

ユニバーサルがアニメーション映画とそのキャラクターをめぐり起こした係争は、アニメーション映画業界の形成、特にウォルト・ディズニー・カンパニーの形成に大きな影響を与えた。

1927年、映画プロデューサーで配給業者のチャールズ・B・ミンツ(Charles B. Mintz)はマーガレット・J・ウィンクラー(Margaret J. Winkler、ワーナー・ブラザース創業者のハリー・ワーナーの元秘書で、フライシャー・スタジオとの仕事やフィリックス・ザ・キャットの版権獲得などで初期のアニメーション映画製作に重要な役割を果たした)と結婚し、彼女の会社ウィンクラー・スタジオの経営を掌握した。ウィンクラー・スタジオを率いる彼は、ユニバーサル映画から、ユニバーサルが配給する予定の新作アニメーション映画シリーズの製作を受注した。この『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』(Oswald the Lucky Rabbit)シリーズはウォルト・ディズニーのアニメーション映画スタジオの初期の共同経営者であったアブ・アイワークス(Ub Iwerks)により製作された。若き日のディズニーは当時、ウィンクラー・スタジオと契約して数々の短編アニメーションを手掛けており、『オズワルド』もそうした一編であった。

『オズワルド』シリーズは1927年、ユニバーサルによる劇場公開で高い収益を得た。キャラクターを作ったのはディズニーの一員のアイワークスであったが、その所有権はユニバーサルにあった。ディズニーはより高い契約を求めてミンツと交渉にあたったが、ミンツは『オズワルド』の所有権をてこにディズニーに低料金での製作を受け入れるよう要求した。交渉の結果ディズニーは要求をのむことを断りユニバーサルを去ったが、大ヒットした『オズワルド』を作ることのできなくなったディズニーとアイワークスは、ウサギのオズワルドの見た目を若干手直ししたネズミのキャラクター「ミッキーマウス」を作った。トーキー方式で公開された『蒸気船ウィリー』(1928年)でミッキーマウスが初めて登場し大成功を収め、ディズニーが第一歩を踏み出した。一方、カール・レムリはアニメーションの外部委託をやめて自社制作をすることとし、1929年から1930年代半ばまでウォルター・ランツの「ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ」に『オズワルド』シリーズなどを作らせ続けたが、『オズワルド』に続く大ヒットキャラクターを生み出すに至らず、比較的マイナーなアニメーション製作者となるにとどまった。
レムリ家による縁故主義とミュージカル、ユニバーサル・モンスターズフランケンシュタイン』 (1931年)、ボリス・カーロフ主演

1928年、カール・レムリは、息子であるカール・レムリ・Jrの21歳の誕生日プレゼントとしてユニバーサル映画の社長の地位を与えた。当時すでにユニバーサルには縁故主義の評判が立っており、レムリの親戚のうち70人がユニバーサル映画で仕事を得ていた。そのうちのほとんどは甥であったため、カールはスタジオ関係者の間で「カールおじさん」と呼ばれていた。

新社長カール・Jrは、ユニバーサルを時流に合った会社にするよう父カール・シニアを説得した。カール・Jrは劇場網を買収し新たな劇場を造り、スタジオをトーキー映画製作に転換させるなど高品質の映画作りに向けた攻撃的経営を行った。この努力は、部分的にトーキー化されたミュージカル映画『ショウボート』(1929年)、テクニカラーを導入した贅沢なミュージカル映画『ブロードウェイ』(1930年)、ユニバーサル初の全編カラーのミュージカル映画『キング・オブ・ジャズ』(1930年)などに結実した。


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