宗教的な自由を回復したことで戦争は終結に向かうかと思われたが、ユダは政治的独立を勝ち取ることを目指したため、ハシディームなど宗教指導者の一部はユダから離れることになった。 その後もユダ・マカバイはシリア軍や周辺民族との戦いにあけくれる。イドマヤ人、次いでアンモンのティモテオス(Timotheus
遠征とシリアとの再戦
紀元前164年、エピファネスがイラン遠征中に失意のうちに病死すると、リュシアスは王の子アンティオコス5世エウパトルを擁立した。翌年、リュシアスは大祭司メネラオスの要請に応えて再度ユダヤに侵入し、象部隊を主力として対戦した(ベト・ザカリアの戦い(英語版))。ユダの兄弟エレアザル・アウアラン(英語版)は王の鎧で武装していた巨大な象を見つけると、王が乗っていると思い込み、象を殺したものの、下敷きとなって死亡した。エウパトルは乗っていなかったため、エレアザルの犠牲は無駄となってしまった。ユダは敗北して撤退を余儀なくされた。エルサレムは包囲されるが、シリア側で将軍フィリッポスによるクーデターが起こったためにリュシアスはユダと和平を結び、撤退した。
紀元前161年、シリア王にデメトリオス1世ソテルが即位すると、大祭司職を狙うアルキモス(Alcimus)はデメトリオスに援助を求めた。デメトリオスはバッキデス(Bacchides)を派遣し、アルキモスを大祭司に任命した。続いてニカノルが派遣されるが、ユダはカファルサラマ、続いてアダサでニカノルを撃破し、討ち取った。 ユダは使者にハッコズの子ヨハネの子エウポレモス、エレアザルの子ヤソンを選び、セレウコス朝シリアと敵対関係にあったローマと同盟関係を結んだ。シリアに対抗すべく、外交にも目を向けたのである。 紀元前160年1月、シリアはバッキデス、アルキモスを派遣して2万2千人の軍でエルサレムを目指した。ユダの軍は脱走兵が続出し、残ったのはわずか800人に過ぎなかった。戦闘を避けるよう懇願されたユダは、敵前逃亡を拒否し、兄弟たちのために男らしく死のうではないか言った。ユダはシリア軍との戦闘中に戦死した(エラサの戦い しばしば芸術、音楽で取り上げられており、ヘンデルのオラトリオ『ユダス・マカベウス』(『マカベウスのユダ』)が有名である。このオラトリオの第58曲「見よ勇者は帰る」(See the conquering hero comes)は競技会などの得賞曲として親しまれ、また讃美歌にも採用され、『よろこべやたたえよや』として歌われている。
ローマとの同盟と戦死
芸術
出典
出典
^ NEW CATHOLIC ENCYCLOPEDIA, second edition, vol. 9, p. 9
参考図書
『聖書の世界 第3巻 旧約V』(関根正雄・村岡崇光著、講談社、1970年)
『ユダヤ古代誌4』(フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳、筑摩書房)
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