ユダ・マカバイ
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ユダはついにエルサレムを奪還し、異邦人に汚されたエルサレム神殿の聖所を清め、再びヤハウェに献納して中断していた神殿でのユダヤ教の礼拝を復活させた。ハヌカーはこれを記念するために制定された(紀元前165年キスレーウ25日)。またヘンデルのオラトリオ『マカベウスのユダ』はこの故事に取材したものである。

宗教的な自由を回復したことで戦争は終結に向かうかと思われたが、ユダは政治的独立を勝ち取ることを目指したため、ハシディームなど宗教指導者の一部はユダから離れることになった。
遠征とシリアとの再戦

その後もユダ・マカバイはシリア軍や周辺民族との戦いにあけくれる。イドマヤ人、次いでアンモンのティモテオス(Timotheus)らと交戦した後、ガリラヤギレアデのユダヤ人が孤立して救援を求めてくると、ユダとヨナタンはギレアデ、シモンはガリラヤへ向かった。ユダはボソラ、カスフォ、マケド、ボソルなどを攻略し、ティモテオスも撃破して味方を救出し、意気揚々と帰還した。この時、エルサレムに残っていたザカリアの子ヨセフ、アザリアは自分たちも戦功を立てようと相談し、ヤムニアへ出撃したがゴルギアスに大敗した。ユダはヘブロンアシュドドも攻略して焼き払った。

紀元前164年、エピファネスがイラン遠征中に失意のうちに病死すると、リュシアスは王の子アンティオコス5世エウパトルを擁立した。翌年、リュシアスは大祭司メネラオスの要請に応えて再度ユダヤに侵入し、部隊を主力として対戦した(ベト・ザカリアの戦い(英語版))。ユダの兄弟エレアザル・アウアラン(英語版)は王の鎧で武装していた巨大な象を見つけると、王が乗っていると思い込み、象を殺したものの、下敷きとなって死亡した。エウパトルは乗っていなかったため、エレアザルの犠牲は無駄となってしまった。ユダは敗北して撤退を余儀なくされた。エルサレムは包囲されるが、シリア側で将軍フィリッポスによるクーデターが起こったためにリュシアスはユダと和平を結び、撤退した。

紀元前161年、シリア王にデメトリオス1世ソテルが即位すると、大祭司職を狙うアルキモス(Alcimus)はデメトリオスに援助を求めた。デメトリオスはバッキデス(Bacchides)を派遣し、アルキモスを大祭司に任命した。続いてニカノルが派遣されるが、ユダはカファルサラマ、続いてアダサでニカノルを撃破し、討ち取った。
ローマとの同盟と戦死

ユダは使者にハッコズの子ヨハネの子エウポレモス、エレアザルの子ヤソンを選び、セレウコス朝シリアと敵対関係にあったローマと同盟関係を結んだ。シリアに対抗すべく、外交にも目を向けたのである。

紀元前160年1月、シリアはバッキデス、アルキモスを派遣して2万2千人の軍でエルサレムを目指した。ユダの軍は脱走兵が続出し、残ったのはわずか800人に過ぎなかった。戦闘を避けるよう懇願されたユダは、敵前逃亡を拒否し、兄弟たちのために男らしく死のうではないか言った。ユダはシリア軍との戦闘中に戦死した(エラサの戦い(英語版))。兄弟ヨナタンシモンはユダの遺体を引き取り、モディン(英語版)に葬った。ヨナタンが彼の後をついでユダヤ軍を指導した。
芸術

しばしば芸術、音楽で取り上げられており、ヘンデルのオラトリオユダス・マカベウス』(『マカベウスのユダ』)が有名である。このオラトリオの第58曲「見よ勇者は帰る」(See the conquering hero comes)は競技会などの得賞曲として親しまれ、また讃美歌にも採用され、『よろこべやたたえよや』として歌われている。
出典
出典
^ NEW CATHOLIC ENCYCLOPEDIA, second edition, vol. 9, p. 9

参考図書


『聖書の世界 第3巻 旧約V』(関根正雄村岡崇光著、講談社、1970年)

『ユダヤ古代誌4』(フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳、筑摩書房)

先代
マタティアハスモン朝の指導者
紀元前166年 - 160年次代
ヨナタン

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