セファルディム-イスラエルにおける「アシュケナジム以外のユダヤ人」を広く指す言葉。このうち中東・アフリカ系だけは「ミズラヒム」と 別にする場合もある。本来は、中世にイベリア半島(スペイン、ポルトガル)に住んでおり、イベリア半島からの追放後にアジア・アフリカ地域に移住したユダヤ人の子孫を指す言葉[12]。
インドと周辺のユダヤ人
(英語版の記事「Jews by country
List of Jews from the Arab World」も参照)ミズラヒムとは、セファルディムの中でもアラブ世界などイスラム教が多数派の社会に住んでいたユダヤ人の総称。(エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版の記事「Islam and Judaism」も参照)旧約聖書によると、アダムから始まる。アダムの子にセツとカインが居りセツに信仰が引き継がれた。大洪水によりノアの子孫だけが生き残る。ノアの子セムとハムとヤフェテが居り、セムに信仰が引き継がれた。セムからエベルに信仰が引き継がれた。エベルの時代にニムロドがバベルの塔を建設。エベルは信仰を守っていたので言語を混乱させられなかったためヘブライ語を引き継ぐ。エベルの子孫にアブラハムが居る。アブラハムが、現在のイラク南部とされる「カルデア(メソポタミア)のウル」から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。
ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で生活を続けた(ヘブライの原義はアブラハムの先祖エベルから)。
紀元前17世紀ごろ[注 3]、ヘブライ人は飢饉のためカナンの地から古代エジプトに集団移住した。その後預言通り古代エジプトの地で奴隷とされた。
その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり[注 4]、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)にたどり着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。このころからイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑(英語版)に:
(ヒエログリフ:?-?-?:?*?:?-?-?-?:?-?-?*?:? - YSRYR - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。
紀元前10世紀ごろ、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、ある統計によれば同時代の世界人口は約5,000万人[25]、縄文時代だった日本列島の人口は推定で10数万である[26]。ソロモン王の死後、紀元前930年ごろ、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、多くの人民が捕虜としてアッシリアに囚われるか離散した(アッシリア捕囚、失われた十支族)。南のユダ王国は、紀元前609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年に新バビロニアの侵攻に遭い(エルサレム包囲戦 (紀元前587年)(英語版))、翌年にはユダ王国が滅亡してエフド(英語版)と呼ばれる属州が置かれ、多くの人民が捕虜としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになった。
紀元前539年のオピスの戦いで、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国エフド・メディナタ(英語版)として復興された。一方でバビロンに留まった捕囚民のコミュニティはペルシャの直接統治の元で繁栄し、重要な地位に昇るものもいたとされる。