1794年にコシチュシュコの蜂起が勃発すると、ヴィビツキもこれに参加し[1]、マゾフシェ公国評議会の一員として軍事行動を起こした[6]。蜂起が失敗すると、ヴィビツキはフランスへ亡命した[2]。ユゼフ・ヴィビツキ
ヴィビツキは、愛国派の軍事指導者タデウシュ・コシチュシュコやヤン・ヘンリク・ドンブロフスキらの親友だった[7]。彼はドンブロフスキとともにフランス革命政府にかけあい、イタリア戦線のナポレオン・ボナパルトの元でポーランド軍団を創設することを認められた[1]。1797年、ヴィビツキはイタリアのレッジョ・エミリアにいる際に「ドンブロフスキのマズルカ」を書きあげた[1]。1806年にはプロイセン領ポーランドでヴィエルコポルスカ蜂起を組織し、ここを解放した[2]。
1807年にワルシャワ公国が成立すると、ヴィビツキは司法の重職を歴任した。ナポレオン体制とワルシャワ公国が倒れ、ロシア支配下でポーランド立憲王国が成立した後も、ヴィビツキはその地位を保持した[2]。1817年、彼はポーランド立憲王国の最高裁判所長となった[8]。
1822年3月10日、ヴィビツキはプロイセン領ポーランドのポズナン公国のシレーム近郊マニェチュキで没した[1]。 ヴィビツキは文筆家、ジャーナリスト、詩人の顔も持っていた[1]。彼は1770年代から1780年代にかけての改革を題材とした政治的な詩や演劇を書いた[1][2]。ポーランドの政治体制や自由の意義を洞察し、農民にさらなる権利を与えるよう主張していた[9]。また1800年代には、ワルシャワ公国での改革を宣伝するより政治的なパンフレットも出版している[2]。 何にもましてヴィビツキ最大の業績として上げられるのは、「ドンブロフスキのマズルカ」を作詞したことである[2]。この歌は1831年の11月蜂起以降、ポーランドの非公式な国歌と見なされ[1]、1927年に議会で正式に国歌として制定された[2][10]。
業績
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m Boles?aw Oleksowicz. ⇒"Jozef WYBICKI". VIRTUAL LIBRARY OF POLISH LITERATURE. Retrieved 7 October 2013.