ユゼフ・ピウスツキ
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1920年ポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍事顧問団やシモン・ペトリューラウクライナ人民共和国残党の協力のもとキエフまで進撃するが赤軍に敗退、ワルシャワ近郊十数kmの地点まで攻め込まれるがヴィスワ川の奇跡と呼ばれるほどの逆転勝利に成功(ワルシャワの戦い (1920年))。敗退する赤軍を数百km追撃したためポーランドは東方に大きな領土を獲得した。
サナツィア体制カトヴィツェのピウスツキ像

1921年にドモフスキが「三月憲法」を制定。これは議会の力を強め大統領の権限を弱めるものであったため、ピウスツキは大統領には立候補せず、1923年に引退を宣言。しかし、初代大統領のガブリエル・ナルトヴィチ(ポーランド語版、英語版)が「ユダヤ人によって大統領になった」との噂から暗殺されたことや、短期政権による場当たり的な政策から激しいインフレが引き起こされたことから、国家は混乱に陥った。

1926年5月12日、ピウスツキはクーデター「五月革命(ポーランド語版、英語版)」を起こす。絶大な人気により、政府内にもクーデターの協力者が出る状態であったが、政府側もよく抵抗した。結局、鉄道労働者の協力があったため、クーデター軍が数日で勝利した。犠牲者は500人程度だといわれている。ピウスツキは大統領にはならず、国防相と首相の立場から実権を握った。この独裁期間は反対者を収監するなど、ファシスト的な独裁ではあったが、政治腐敗の一掃を行ったため、サナツィア(清浄化)体制と呼ばれている。ピウスツキは反ユダヤ主義に否定的で、かつてのポーランド・リトアニア共和国(ヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」でその民主主義の理念が頂点に達した)のようにポーランドを諸民族が融和するコスモポリタン多民族国家として育てようと考えており、この点でサナツィア体制はファシズムとは異なる。そのためピウスツキは国内のユダヤ人からも支持を獲得した。晩年のピウスツキ(1935年)

1932年ソビエト連邦ソ連・ポーランド不可侵条約を、1934年にはナチス・ドイツドイツ・ポーランド不可侵条約を結んだ。これらの条約はドイツやソ連を利するものだという批判もあった。ピウスツキは不可侵条約による安定は長くは続かず、いつかはナチス・ドイツやソ連がポーランドを侵略しようとするだろうと考えていた。「この2つの条約がある状態というのは、ポーランドが2つの椅子に両脚を乗せているようなものである。こんな状態は長くは続かないだろう。いまやどちらの椅子からひっくり返るか、そしてそれはいつなのか、ということだ」と述べた。

1933年アドルフ・ヒトラーが政権の座に着くと、ピウスツキはフランスと協力してドイツに対する予防戦争に打って出ることを画策したとされる。しかしフランス国内に厭戦気分が強かったため、フランスはこういった戦争がヴェルサイユ条約違反となることを理由にピウスツキの対独戦争の極秘提案を断ってきたと言われている。翌年ドイツとの不可侵条約が結ばれたのはこういう経緯があった。

ヒトラーはポーランドに対し、ドイツ・ポーランド同盟を結び共産主義のソ連に対抗することを提案した。ピウスツキはこの提案を拒否した。スターリントロツキーと異なり一国社会主義を標榜していることから、ソ連は当面の間はポーランドにとって直接の脅威にはならないと考えた。ピウスツキはむしろナチス・ドイツに対する戦争を考えており、その準備のために時間稼ぎをしようしていた。ヒトラーはピウスツキとの首脳会談を提案したが、ヒトラーの著書「わが闘争」に見られるようなエスノセントリズム反ユダヤ主義といった過激な民族主義を標榜するナチズムを異常な思想だとして軽蔑していたピウスツキはこれを無視した。それどころか、ピウスツキはフランスイギリスとの関係を強固にし、ドイツを支配していた危険なナチズム体制を攻略する機会を窺っていたのである。ヴィリニュスにある墓

1935年3月12日、肝臓癌のためワルシャワで死去。67歳。遺体はクラクフヴァヴェル大聖堂に、心臓は母親の遺体とともにヴィリニュスに埋葬された。

ピウスツキの死去から4年後の1939年8月23日、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を結び、その際に両国間で交わされた秘密議定書においてポーランドの領土の分割を取り決めた。同年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻を開始。9月17日にはソ連軍も東部国境より侵攻し、9月末には、ポーランドは独ソ両国により分割占領され、再び地図の上からは消滅してしまった。
評価

1795年の第三次ポーランド分割以降、123年ぶりにポーランドを独立させたピウスツキは、ポーランドの英雄の一人である。しかし、後年、とりわけ共産主義体制時代には、独裁者となりナチス・ドイツと条約を結んで1939年のポーランド侵攻を招く隙をつくったとされ、公式の評価は下がった。とはいえ、当時も現在も国民の人気は非常に高い。

ピウスツキは晩年には警察権力で反対勢力を弾圧したりして言論の自由を制限したのは確かである。それであっても彼の体制下では形式的ながら複数政党制も存在し、反対する政党が機関紙を出すことも自由であった。


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