ユゼフ・ピウスツキ
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ピルスツキ、ピルスヅキ、ピルツスキー、ピルスーツキイとも表記される。
生涯

ロシアの農村、ズウフ(Zu?ow、現在、リトアニア領Zalavas)にて没落したポーランド貴族の家庭に生まれ、ヴィリニュス(後にポーランド領、現リトアニアの首都)の学校に通う。母親マリアから当時ロシア政府によって禁止されていたポーランド語の読み書きと自国の歴史を学ぶ。ピウスツキの独立精神は母親の教育によるものが大きい。1884年、母マリア死去。少年時代のユゼフ・ピウスツキ
独立運動

1886年からハリコフ大学で医学を学ぶ。ところが、1887年3月、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画が発覚。レーニンの兄であるアレクサンドル・ウリヤーノフを含む首謀犯は死刑となる。彼らに近かったブロニスワフ・ピウスツキは捕えられ、懲役15年の判決を受ける。弟ユゼフも連座し、5年間の懲役判決を受け、キレンスクなどイルクーツク周辺へ流刑となる(ここでの懲役とは、囚人農場での強制労働(en:Katorga)のことである)。流刑地ではポーランド人流刑者や社会主義思想家と出会うこととなった。

1892年、解放。ヴィリニュスに戻り、ポーランド社会党を創立。地下新聞「Robotnik(労働者)」を発行する。

1900年、政府によって投獄されるが、発狂したとみせかけ、サンクトペテルブルク精神病院へ移送されたところを脱走。
日露戦争から第一次世界大戦まで

1904年7月、日露戦争中の日本を訪問。ポーランド独立のための支援を要請する。ところがこのとき、ポーランド国民連盟(ポーランド語版、英語版)代表ロマン・ドモフスキ(ポーランド語版、英語版)(Roman Dmowski)が既に来日、ポーランド人捕虜を慰問するなど工作を行っていたため、大規模な日本政府の援助は受けられなかった。東京でピウスツキはドモフスキと偶然出会い、9時間に及ぶ激しい議論を行った。

1906年、ポーランド社会党がロシア第一革命の影響を受け親ロシア的になると、反ロシア・独立派のピウスツキは孤立する。

1908年、後のポーランド軍となる私設軍隊を創設する。

1914年第一次世界大戦勃発。ポーランド軍はオーストリア軍の一部として行動する。1917年ウィルソン米大統領、十四か条の平和原則を発表、ポーランド建国を提言。ドモフスキはローザンヌにポーランド国民委員会を設立。このとき、ピウスツキはポーランド軍がドイツ・オーストリア軍の一部となることを拒否したため、マルデブルク監獄に投獄される。
独立ポーランドの指導者として

1918年11月、ドイツ革命が起こると、ピウスツキは出獄してワルシャワに戻り、ポーランド第二共和国国家元首となる。翌年1月、イグナツィ・パデレフスキ首相による内閣発足。1920年ポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍事顧問団やシモン・ペトリューラウクライナ人民共和国残党の協力のもとキエフまで進撃するが赤軍に敗退、ワルシャワ近郊十数kmの地点まで攻め込まれるがヴィスワ川の奇跡と呼ばれるほどの逆転勝利に成功(ワルシャワの戦い (1920年))。敗退する赤軍を数百km追撃したためポーランドは東方に大きな領土を獲得した。
サナツィア体制カトヴィツェのピウスツキ像

1921年にドモフスキが「三月憲法」を制定。これは議会の力を強め大統領の権限を弱めるものであったため、ピウスツキは大統領には立候補せず、1923年に引退を宣言。しかし、初代大統領のガブリエル・ナルトヴィチ(ポーランド語版、英語版)が「ユダヤ人によって大統領になった」との噂から暗殺されたことや、短期政権による場当たり的な政策から激しいインフレが引き起こされたことから、国家は混乱に陥った。


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