1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍の侵攻から逃れるため、チャクステは妻子と共に1915年にエストニアのタルトゥ(ドルパト)に移る[1][2][3]。 戦争により40万人以上の難民が生じたため[6]、ラトビア難民支援中央委員会の設立に参加し、副委員長となる[1][2][3][4][6]。 1917年3月、ヴィリス・オラウス委員長の死後、後継の委員長となった[1][2][3][5][6]。 チャクステはラトビア独立運動の一環としてアメリカ合衆国へ向かうことになったが、その途中スウェーデンのストックホルムに滞在している際、ロシア2月革命が起こったことにより、渡米を中止しストックホルムに留まることになる[1][2][3]。 チャクステはそこで、?Die Letten und ihre Latwija: Eine lettische Stimme“[注 3] (ラトビア人と彼らのラトビア ― ラトビアの声)というドイツ語のパンフレットを著した[1][2][3][4][5]。同年4月にクールラント県知事に選出され、10月にロシアのカザンに移住した。同月、ペトログラードにおいて設立されたラトビア暫定国民評議会(LPNP)では外交部門を担当した[15]。
1918年11月18日、チャクステはラトビア人民評議会の議長に選出された[1][2][3][4][5][6]。1919年のパリ講和会議ではラトビア代表団を率いた[1][2][3][4][5][6][9][15][16]。また、1920年から1921年までラトビア大学の国際法教授を務めた[1][2]。1924年9月28日には、大学から名誉博士号を授与されている[8]。
初代大統領チャクステとフィンランドのレランデル大統領。 後方右側にフィンランドのエーミル・ネストル・セタラ外相
ラトビア共和国憲法が発効した1922年11月7日に、 第1回ラトビア議会(サエイマ)が開かれ、一週間後の11月14日に大統領選挙が実施されることとなった[1][2][3]。 定数100人の議会において実施された投票において、チャクステは賛成92、棄権6で当選した[1][2][3][4][5][6]。 3年後の1925年11月6日に実施された大統領選挙では第2回投票にて初代首相のカールリス・ウルマニスを60対31で下し再選された[1][2][3][4][5][6][注 4]。