1867年、第一次ポーランド分割に反対した愛国者タデウシュ・レイタン を題材とした『レイタン、ポーランドの没落』 がパリ万国博覧会で金賞を受賞した。ヨーロッパにおける歴史絵画の最も傑出した典型にマテイコも含まれていると、フランス人は批評した。彼は自らの作品を通して、ポーランド分割による消滅という政治的現実にあらがって、ポーランドはいまだ存在しているということを、ヨーロッパの他諸国に気づかせることに成功した。これらの作品が高い評価を受けたことで、彼は絵画製作に集中できる安定した暮らしを得た。クラクフ美術学校。1979年にマテイコにちなみヤン・マテイコ美術学校と改称。存命中の彼は校長を務めていた。
1873年にヤギェウォ大学から独立した母校、クラクフ美術学校の初代校長となった。マテイコは亡くなるまでクラクフ美術学校の校長職についており、ラコヴィツキ墓地 (pl:Cmentarz Rakowicki) にある『功績者の小路』中央部に埋葬された。彼が生まれたクラクフ、フロリアンスカ通りの生家は、現在マテイコ博物館となっている。 1860年、マテイコは画集『ポーランドにおける衣服』 (Ubiory w Polsce) を出版した。あらゆる種類の歴史的記録への彼の熱烈な関心と、ポーランド国民にもそうした関心を促し愛国感情を強めたいという彼の願望を反映した企画であった。ポーランド王プシェミスウ2世の暗殺 1861年、マテイコはワルシャワのザヘンタ国立美術館
作風
マテイコの作品は、芸術的観点からだけでなく、それが果たした(そして現在も果たし続けている)社会的な機能(function)の観点からも見られなければない。彼は歴史を現在および未来の相関物(function)として考えていた。彼の絵画は、歴史を描いた説明図ではなく、むしろ、画家の精神と、世界に対する彼の姿勢の、力強い表現である。
歴史的主題『スタンチクとガムラト 』
マテイコは、ポーランド史の重要なテーマに的を絞り、歴史上における精密な細部について、史実を描くために歴史資料を用いた。彼の歴史画には2つのグループがある。初期のグループは1862年にスタンチクを描いた絵で始まった。愛国心の欠如している権力者たちが引き起こした、彼の意見でいうところの『ポーランドの没落』に対して向けられた作品である。ジグムント1世(1437年-1548年)の宮廷道化師スタンチクに、彼は自身の姿を重ねている。道化師は国家の良心の象徴として表現されている。彼はその他の人物たちから離れて、孤独のまま椅子に物憂げに座っている。最後に悲劇で終わるモスクワ大公国=リトアニア戦争(英語版)の最中の出来事を見せているのである。この絵のグループには、1864年の『スカルガの説教』、1866年の『レイタン』が含まれる。
第2のグループは、一月蜂起の後に描かれた物で、ポーランド史の有名な事件に捧げられている。マテイコはポーランド史に残る多くの主要な事件・戦闘を描いた。最も有名な作品は、1410年にポーランドがドイツ騎士団に勝利を収めた戦いを描いた、『グルンヴァルトの戦い』 (Bitwa pod Grunwaldem) である。絵には『明白な愛国者の努力』が見える[3]。「ポーランド人の愛国主義の無比のイコン」として国際的な喝采を集めた[4]。このグループのその他の作品には、『ルブリン合同』(Unia Lubelska、1869年)、『プスコフ包囲戦でのステファン・バートリ』(Stefan Batory pod Pskowem、1872年)、『コペルニクス』(Kopernik)、『ジグムントの鐘』(Dzwon Zygmunta、1874年)、『プロイセンの臣従』(Ho?d Pruski、1882年)、『第二次ウィーン包囲でのヤン3世ソビエツキ』(Sobieski pod Wiedniem、1883年)、『ラツワヴィツェの戦いでのコシチュシュコ』(Ko?ciuszko pod Rac?awicami、1888年)、『ポーランドにおける文明化の歴史』(Dzieje Cywilizacji w Polsce、1889年)、『5月3日憲法』(Konstytucja 3 Maja、1891年)がある。1890年から1892年にかけて、彼は自分の本『ポーランド国王の肖像』(1890年)にまとめられた、歴代ポーランド国王を全て描いた。彼の細部に傾けた献身は、女王ヤドヴィガの頭蓋骨をスケッチするため、1887年に行われたヤドヴィガのサルコファガス公開に立ち会ったことから明かである。
歴史上の事件に加え、マテイコは肖像画を数作制作している。1879年の『花嫁衣装を着た妻』 (?ona w sukni ?lubnej)、1879年の『ポトツキ』、1890年の『タルノウスキ』、1892年の『自画像』である。