ヤン・フス
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チェコ語 Jan Hus は、フス自身が使いはじめた生誕地の略語で、当初彼は「フシネツのヤン」(Jan Husinecky)、ラテン語で Johannes de Hussinetz として知られていた。
生涯
前半生の生活と研究

ヤン・フスは、ボヘミア地方のプラハの南南西75キロメートルにあるフシネツで生まれた。両親はチェコ人で貧しい生活を送り、フスは教会で奉公して生計を補った。

ボヘミアは神聖ローマ皇帝カール4世の時代に文化的な隆盛を迎え、プラハは独立の大司教区となり、プラハ大学(後のプラハ・カレル大学)が創設された。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わった。

1380年代半ば頃には、フスは勉強のためにプラハに赴いた。親友となるが最後には敵対したズノイモのスタニスラフ(Stanislav ze Znojma)とは、この頃に出会った。1393年に学術学士号を、1394年に論理学士号を、1396年に学術修士号を取った。

1400年に僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命された。

1402年にプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者にも指名され、チェコ語で説教を行った。大司教ズビニェク・ザイーツ(Zbyn?k Zajic、1403年に就任)のもとフスは1405年には組織の説教者(synodical preacher)となった。
ウィクリフの影響

1382年にカール4世の息子でローマ王兼ボヘミア王ヴァーツラフ4世の異母妹アンナイングランドリチャード2世と結婚し、その影響でウィクリフの哲学書がボヘミアにも行き渡り、広く知られるようになった。ウィクリフの哲学書は1401年1402年に「プラハのヒエロニムス」により伝えられた。大学は新しい教義の広がりに対し反対の声を上げ、1403年にウィクリフに賛同する55の論文についての議論を禁止した。

フスは研究者として、特にウィクリフの哲学的現実主義に強く魅了された。その神学理論を知ったことにより、教会改革に向かうフスの性向が覚醒した。このため、フスは聖職者を批判することが増え、大司教は彼に与えた職を解任した。
大学での対立

プラハ大学の環境の発展は教会大分裂(シスマ)に大きく依存していた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世の政策をローマ教皇グレゴリウス12世は支持しなかった。そこで王はグレゴリウス12世を見捨て、高位聖職者と大学に対して、並立する教皇を中立に支持するように命じた。しかし、大司教は教皇に忠実で、大学では中立を明言したのはフスを代表者とするボヘミア人だけだった。当時は反ウィクリフ派のドイツ人移民とウィクリフ派の土着チェック人の間で対立がおきており、プラハ大学でドイツ人の同郷団(ナツィオ、"natio")は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。

1409年、大学の対応に怒ったヴァーツラフ4世は、フスとチェコ人指導者の教唆を受け、クトナー・ホラにて布告を発し、大学の諸問題に対して、ボヘミア人には3票の投票権を与え、主にドイツ人同郷団等の外国人には1票しか投票権を与えないという改革を宣言した。その結果、多くのドイツ人教授、技術者、学生がプラハ大学を去り、ライプツィヒ大学を創立した。プラハはチェコの一大学となったが、この時の移住者によって、ボヘミアの異端説の名声が遠い国々まで広まった。

大司教は孤立し、フスは名声を得た。彼は学長となり、宮廷からも支援を受けた。とかくするうちにウィクリフの学術的視点は国中に広まった。
教皇の教書公布

大司教がグレゴリウス12世に忠実だった間は、ウィクリフの新思想に対する反対派は失望が続いていたが、大司教は対立教皇アレクサンデル5世ピサ教会会議で選出)の拝謁に際して、ウィクリフ派がボヘミアの聖職者に騒動を持ち込んだとして告発すると、アレクサンデル5世は1409年12月20日に教書で大司教の権限を強化し、ウィクリフ主義に法的手続きをとること、すなわちウィクリフの著述を廃棄し、教義を無効とし、自由な伝道を禁止すると布告した。

教書公布後の1410年、フスは教皇に訴えたが聞き入れられず、全てのウィクリフの書物と写本が焚書となった。そして、フスとその支持者は追放された。この裁きはボヘミアの下層民の間に大変な騒乱を引き起こし、何箇所かで不穏な場面が現れた。政府はフスとその支持者を庇護し、その力は日に日に増大した。フスはベツレヘム礼拝堂で、告発に対して一層大胆な説教をした。プラハの教会は閉鎖され、教皇による禁令がプラハに発せられたが、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。
贖宥状に関する議論

大司教ズビニェク・ザイーツが1411年に死去し、ボヘミアの宗教運動は新しい局面に入った。すなわち、贖宥状に関する議論の高まりである。1411年にアレクサンデル5世の後を継いだ対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は贖宥状の売買を始めた。プラハでも、贖宥状の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。

フスは、ウィクリフの例を出して贖宥状に反対し、有名な改革論を書いた。1412年に、フスが発表した論文(Quaestio magistri Johannis Hus de indulgentiis)によって論争が引き起こされた。その論文は、ウィクリフの著書(De ecclesia)の最終章とフスの論文(De absolutione a pena et culpa)からの引用だった。ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張した。人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのである。この主張のため、フスは大学に留まることができなくなった。

民衆は、詐欺的な姦通者と聖職売買者の集まりのようなローマ教会よりも、フスに従うべきだと考えた。神学部の学者たちはフスの主張に反論したが、人々はヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテイン(Vok Voksa z Vald?tejna)によって導かれ教皇の教書を焼き捨てた。説教の途中で説教者をはっきりと否定し贖宥状を欺瞞と言った下層階級出身の3人の人が斬首された。かれらはフス派の最初の殉教者だった。

神学部はフスに司祭の試験のために、演説をし教義を提示することを要求したが、彼は拒否した。学部は55の論文を新たに異端と宣告し、フスの幾つかの論文も異端に加えた。ヴァーツラフ4世はこれらの論文を教えることを禁止したが、フスと大学のどちらが正しいとしたわけではなく、論文の異端性を最初に証明することを要求した。
さらなる意見の相違

プラハの騒ぎは大騒動となり、ローマ教会はそれを不快と受け止めた。教皇代理で大司教のアルビックは、フスに対して教書への反対を止めるように説得を試みた。また、ヴァーツラフ4世は両派を和解させようと試みたが、失敗した。

その間にプラハの聖職者達は、ミヒャエル・デ・カウズィズを通じて、教皇に不平を訴えた。


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