ヤンキー・スタジアム_(1923年)
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2003年以降は観客動員が全30球団中1位となりながらなお伸び続け、球場移転へと至っている。

2009年には新ヤンキー・スタジアムが完成し、それにともない従来のヤンキー・スタジアムは2008年のシーズンをもって閉鎖されることとなった。旧球場最終年となる2008年にはMLBオールスターゲーム7月15日に開催された。試合は旧球場との別れを惜しむかのように延長15回まで長引き、オールスターゲーム史上最長の4時間50分にわたって熱戦が繰り広げられた。最後の試合は同年9月21日に開催された。そのあと、11月23日まで球場内を公開するツアーが行われた。ただし、モニュメント・パーク(後述)の部分の公開は11月9日で終わり、11月12日から新球場への移設工事が行われた。

2009年3月から解体撤去工事が開始された。跡地にはヘリテージフィールドという10エーカーの公園が整備されている。
フィールドの特徴1923年のオープニングデーの国旗掲揚

ヤンキー・スタジアムは伝統的に「左打者有利・右打者不利」といわれてきた。これは開場時、左中間が500フィート(約152.4メートル)もあった一方、右中間はスタンド裏にニューヨーク市地下鉄の高架線がある関係で429フィート(約130.8メートル)しかなく294.75フィート(約89.8メートル)の右翼ポール際にかけての狭いエリアでホームランの出ることが多かったためである。この形状からヤンキースは歴史上、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグミッキー・マントル両打ち)、ロジャー・マリスレジー・ジャクソンドン・マッティングリーティノ・マルティネスジェイソン・ジアンビ松井秀喜など左打ちのパワーヒッターを数多く獲得してきた。

しかしフィールドの広さは年々変更されていき、閉鎖時には左右両翼共に開場当時よりずいぶん狭くなっていた。特に1976年の改築でフィールド面積は大幅に縮小された。左中間は現在でも399フィート(約121.6メートル)と大リーグ屈指の広さを誇るが、1988年のモニュメント・パーク設置により、センターよりも左中間が深いという特徴的な形状は解消され、常識的な範囲内での変形球場となっていた。

内野の芝は長めにカットされていた。このため打球の勢いが死にやすいので、内野手には強肩が要求された。ファウルグラウンドは狭く、邪飛によるアウトが少なくなるので打者に有利に働いた。
外野の広さの変遷[5]

年度左翼左中間中堅右中間右翼
1923280.58500487429294.75
1924280.58490487429294.75
1928301490487429294.75
1930301490487429295
1937301457461407295
1939301457461407296
1967301457463407296
1976312436417385310
1985312436410385310
1988318399408385314

※単位はフィート、1フィート≒30.48センチ
記録

ヤンキースタジアムで最も本塁打を打ったのはミッキー・マントルの266本、次いでベーブ・ルースが259本、ルー・ゲーリックの251本である[6]

ヤンキースのヤンキースタジアム史上観客最少記録は1966年9月22日の対シカゴ・ホワイトソックス戦の413人で、1対4でヤンキースが敗れている[7]

現職のアメリカ大統領がヤンキースタジアムで始球式を行ったのは2度で、最初は1956年のドワイト・D・アイゼンハワーで、2度目は2001年10月30日に行われた、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズジョージ・W・ブッシュ[8]
野球以外

ヤンキースタジアムはニューヨーク・ヤンキースの試合以外でも多くの歴史的舞台となっている。

プロボクシングでは合計30回の世界タイトルマッチが行われており、最初に行われたのは1923年7月24日のライト級のベニー・レナード対ルー・テンドラーの一戦で、レナードが勝利している[9]。最後に行われたのは1976年9月28日のヘビー級のモハメド・アリケン・ノートン戦だった[10]。1952年6月25日のヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンがジョーイ・マキシムに生涯唯一のKO負けを喫しているが、この試合は40度の猛暑の中で行われ、10ラウンド終了時にはレフリーが交代するというタイトルマッチ史上初の珍事が起きている[11]

1950年8月2日エホバの証人の集会が開かれ、この時の入場者数12万3707人は球場史上最多記録となった[12]

1965年10月4日ローマ教皇パウロ6世が9万人の信徒を前に同球場で初の教皇によるミサを行っており、1979年10月2日にはヨハネ・パウロ2世が8万人の信徒を前に球場史上2度目の教皇によるミサを行った[13]

1990年6月21日、この年釈放されたばかりの後の南アフリカのネルソン・マンデラ大統領が支持者を8万人集めて演説を行い、アパルトヘイト撤廃を訴えた[14]
モニュメント・パークモニュメント・パーク永久欠番プレートが並ぶ通路


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