1945年1月にポーランドを占領したソビエト連邦軍(赤軍)がドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリスの連合軍がライン川に迫る情勢のもと、連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた。会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東ヨーロッパ諸国の戦後処理が取り決められた。
併せて、アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土の処遇も決定し、2024年現在も続く北方領土問題の端緒となった。
また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、イギリス・フランス・アメリカ合衆国・中華民国・ソビエト連邦の5か国(後の安全保障理事会常任理事国)の拒否権を認めたのもこの会談であった。しかし、中華民国の蒋介石総統は呼ばれなかった。このヤルタ会談で国際連合について、まずスターリンは社会主義国の議席を増やすことを狙ってウクライナとベラルーシの加盟を要求した。厳密には主権国家とは言えないこの二国が加盟すればソ連は自動的に3票もつことになるので、アメリカのF=ルーズヴェルトは難色を示した。しかしチャーチルはイギリス帝国内の自治領インドを加盟させることでバランスをとろうとした。結局ルーズヴェルトも国連安全保障理事会の拒否権問題でソ連の妥協を引き出すためには“多少の犠牲を払っても良い”との判断からスターリンの要求を呑み、「ソ連は国連で3票持つ」形になった。
会談が行われたクリミア半島は、当時はソ連構成国であるロシア共和国の領土であり(1954年にソ連構成国であるウクライナ共和国の領土となった上でソビエト連邦の崩壊後ウクライナ領となるが、2014年クリミア危機を経てロシアが編入宣言)、ヤルタはクリミア半島の南端、黒海を臨むソ連随一のリゾート地であった。会場となったリヴァディア宮殿は、ロシア皇帝ニコライ2世の別荘(離宮)として建造されたものである。
なお、この会議に先立つ同年1月30日から2月3日にかけ、ルーズベルト大統領とチャーチル首相はマルタ島において会談を行っている(マルタ会談 (1945年))。 ヤルタ会談の半分以上の日程は、このポーランド問題について話し合われた。 1939年9月にドイツとソ連は共にポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領したが、1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破りポーランド東部に侵攻、全域を占領するに至った。その後ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、1944年、ルブリンにおいてポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権)を樹立した。 同年7月から8月にかけてソ連軍は首都ワルシャワに迫り、その際国内軍(ポーランド国民による反ナチス抵抗組織)に対しモスクワ放送を通じて蜂起を呼びかけた。国内軍はこれに呼応して蜂起し(ワルシャワ蜂起)、ワルシャワを占領するが、ソ連軍は直前で進軍を停止して蜂起を支援せず、結局ドイツ軍により蜂起は鎮圧された。このときアメリカとイギリスは、ソ連に国内軍への支援を要求したが、スターリンはこれを無視した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者が出た。 当時ロンドンにはポーランド亡命政府が存在し、イギリスはこれをポーランドの正式な政権として承認していたが、1943年にソビエト連邦軍に連行されたポーランド兵捕虜の大量虐殺事件(カティンの森事件)が発覚し、赤十字国際委員会に調査を依頼すると、亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連はポーランド国民解放委員会(ルブリン共産党政権)こそ「ポーランドの正式な政権だ」と各国に認めさせるため、彼らによる国内統治の障害となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。 ヤルタ会談では、この両政権のどちらが正式な政権であるかを巡って、イギリスとソ連が対立した。ソ連にとって、ポーランドは自国の安全保障上の重要地域であり、一方イギリスにとっては、社会主義の拡大への懸念から、共産党政権を認めることはできなかった。会談では結局アメリカの仲介により、ポーランドにおいて総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国境と場所自体を、西へ移動させることで決着した。 ところが、スターリンは帰国したロンドン亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン共産党政権によるポーランドの社会主義国化が決定的となった。後のアメリカのトルーマン大統領はこれを知って激怒し、米ソの対立が深まった。 ナチス・ドイツは、現在のオーデル・ナイセ線以東にあるシレジア・ポメラニア・東プロイセンの東部領土を全て失い、これらはポーランド人民共和国領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時ドイツ国土の4分の1に当たり、ドイツにとってはプロイセンの故地である、東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、極めて喪失感の大きい内容となった。 なお、ポーランド人民共和国については、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランド人民共和国の国土は、従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながった。また、ガリツィアなど旧東部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。 一方、戦後のドイツの処遇については、首都ベルリンも含め、ドイツを東側陣営(ソビエト社会主義共和国連邦)と西側陣営(イギリス・フランス・アメリカ合衆国)で共同管理することが決められた。 日本に関して、1945年2月8日にアメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長で秘密会談を行い、その後イギリスのチャーチル首相との間で交わされた秘密協定が、この極東密約である。 日本は1944年(昭和19年)3月30日、北樺太に関する条約の締結によりオハ油田の権益をソ連に譲渡したが、スターリンは12月14日、アメリカのW・アヴェレル・ハリマン駐ソ連大使に対して、満洲国の権益(南満洲鉄道や港湾)、樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求した[3]。
ポーランド問題
ドイツ問題
極東密約(ヤルタ協定)外モンゴルと極東の旧日本領土の内容