二輪車製造大手のヤマハ発動機は1955年(昭和30年)に日本楽器の二輪製造部門が独立して設立されたものである。2017年(平成29年)時点においてはブランド名を共通とする関連会社である[注釈 2]。 ヤマハの前身である日本楽器製造株式会社が設立した翌年の1898年(明治31年)、社章として「3本の音叉を交叉させたマーク」(音叉マーク)が定められた[7]。3本の音叉には次の意味が込められている[7]。 社章の制定と同時に、商標として「音叉をくわえた鳳凰」が定められた。以後、企業の成長とともにこの音叉マークもさまざまな形を経て、1967年(昭和42年)に統一された[7]。この音叉マークの統一にあわせ、音叉マークとヤマハロゴを組み合わせた「ヤマハロゴマーク」が制定された(ロゴタイプは大文字英字で「YAMAHA」)[8]。 1955年(昭和30年)、日本楽器製造から二輪車製造部門が独立・分離する形でヤマハ発動機株式会社が設立された。それ以降、現在においてもヤマハとヤマハ発動機は関連会社とはいえ完全に別会社であるが、音叉マークやロゴマークはヤマハ発動機設立当時に日本楽器製造から引き継がれ、現在も使用している。見た目はほぼ同じ図案であるが、両者は細部に下記の違いがある[8]。 異なる点ヤマハヤマハ発動機 ヤマハの源流は1887年(明治20年)、山葉寅楠が浜松尋常小学校(後の浜松市立元城小学校、現在は閉校)でオルガンを修理したことがきっかけである。1888年(明治21年)に浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。2番目のオルガン試作品が東京音楽学校で認められると、共益商社書店 寅楠は1889年(明治22年)に合資会社山葉風琴製造所を設立(「風琴」ふうきん)。1891年(明治24年)に出資引き揚げによりいったんは会社を解散するが、河合喜三郎 1903年(明治36年)に共益商社楽器店代表の白井_造(白井錬一の婿養子、長女・直の夫)が亡くなったのをきっかけに、寅楠は共益商社が持つ東日本での直売権の取得を画策した。当初は合併を目指したが共益商社に拒否されたために、1910年(明治43年)に共益商社楽器店を買収し、自社の東京支店(現・ヤマハ銀座店)とした[10][11]。 1916年(大正5年)の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸
社章・商標・ロゴマーク
「技術」、「製造」、「販売」の3部門の強い協力体制
音叉に象徴される、音および音楽を中心に世界(外円)にのびゆくたくましい生命力
音楽の基本である「メロディー」「ハーモニー」「リズム」の調和
現在使われているロゴマークは2016年(平成28年)にマイナーチェンジされたもので、外円と音叉が白地に黒で表現される1種類のみが使用されている。これ以前までには、デザイン自体は現在と同じであるものの、「白地に黒」と黒地に白抜きの2種類があり、おもに使用する「標準型」と、補助的に用いるもの(「裏図形」や「特殊型」の呼称)として定められており、年代によって両者を入れ替えて使用されていた。直近では1998年(平成10年)に、外円と音叉が黒地に白抜きで表現されるものを「標準形」、現在のもの(外円と音叉が白地に黒で表現されるもの)を「特殊形」とする2種類を制定し使用されていた[7]。日本楽器製造の時代はヤマハ発動機と共通のカタカナ表記の「ヤマハ」ロゴも使われたが、日本企業各社でコーポレートアイデンティティが盛んであった1987年(昭和62年)の社名改称時にカタカナロゴは廃止された。
ヤマハ発動機との違い
音叉マーク音叉の先端が外円の内側に収まる音叉の先端が外円に重なる
「YAMAHA」ロゴ“M”の文字の中央部分が下(ベースライン)についていない“M”の文字の中央部分が下についている
各アルファベットの文字の形がごくわずかだが左右非対称各アルファベットの文字の形が完全に左右対称
カラー表示
(コーポレートカラー)バイオレット(薄紫色■)赤色■
沿革
創業