ヤドヴィガ_(ポーランド女王)
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レオポルド3世は、ヤドヴィガが父のラヨシュ1世から結婚持参金としてヴェネツィア共和国から征服される予定のトレヴィーゾのみを受け取ることに同意した[16]。この儀式の後、ヤドヴィガはほぼ2年間をオーストリア、主にウィーンに滞在することになった[17]

1378年暮れにカタリンが亡くなった[3]ラヨシュ1世は最も影響力のあったポーランド領主らを説得して、1379年9月にカタリンの妹のマーリアへ忠誠を誓わせた[12][18]マーリアカジミェシュ3世の曽孫であるジギスムントと婚約していた[14]ラヨシュ1世カジミェシュ3世からポーランド王位を継承している[19]。ヤドヴィガとヴィルヘルムの「約束された結婚」は1380年2月12日にズリョム(現スロバキアズヴォレン)の会合にて2人の父によって確認された[20][21]。ハンガリーの領主もこの文章を承認した。このことはヤドヴィガとヴィルヘルムラヨシュ1世によるハンガリー統治の後継者であることを暗示した[22]

1382年7月25日、ポーランド領主と聖職者の使節団はジギスムントに対し未来の王として正式に敬意を払った[23][24]。ポーランドはラヨシュ1世がハンガリーの領主と高位聖職者にもヤドヴィガとヴィルヘルムを自らの後継者として受け入れるよう説得する計画があると思っていた[14]。しかし、ラヨシュ1世は1382年9月10日に亡くなった[25]。ヤドヴィガは父の死に際に立ち会った[23]

ヤドヴィガは当時の王女に相応しい高度な教育を受け、ラテン語ボスニア語ハンガリー語セルビア語ポーランド語ドイツ語を自由に使いこなし、美術や音楽、中世科学の素養も身につけていた。また信心深く、マルタマリアの姉妹、スウェーデンのビルギッタシロンスクのヤドヴィガ(ヤドヴィガの名前はこの聖女にあやかったもの)といった聖女たちを特に篤く崇敬していたといわれる。
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「ヤドヴィガの誓い」かつての許嫁との不義の疑いのかかった女王が、夫の面前で聖書に手をおき貞節を誓う場面、ユゼフ・シムレル画

ポーランドでは1370年、カジミェシュ3世が適当な後継者を残さずに死去し、その姉エルジュビェタが息子ラヨシュ1世に王位を継がせ、1380年まで事実上の君主としてポーランドを統治していた。1382年にラヨシュが死去すると、ハンガリーではマーリアが王位を継いだが、ポーランド王国の事実上の支配者であるマウォポルスカ地方の貴族たちは、ハンガリーとの同君連合の継続を意味するマーリアとその婚約者ジギスムントの統治を拒んだ。彼らはマーリアの妹ヤドヴィガを女王に迎えると宣言し、1383年に起きたヴィエルコポルスカ内戦が終息した1384年11月、10歳のヤドヴィガが王位についた。この時ヤドヴィガは「王の配偶者」の意味を含む「女王」(Regina Polonia)ではなく、男性君主を指す「国王」(Rex Polonia)の称号をもって即位した。この後、1387年にハンガリー摂政である母エリザベタが、クロアチアの有力貴族フランコパン家の策謀で暗殺され、ヤドヴィガは母方の叔父であるボスニア王トヴルトコ1世を後見人とした。1395年には姉マーリアが難産で死去し、ヤドヴィガは実家の家族を全て失った。

即位したヤドヴィガには、ピャスト家の流れをくむマゾフシェ公家出身のシェモヴィト4世と、マウォポルスカ貴族の支持を受けるリトアニア大公ヨガイラの2人が新たな結婚候補として浮上した。許嫁のオーストリア公ヴィルヘルムは、1385年にヤドヴィガと正式に結婚して共同統治者の地位を獲得しようとしたが失敗し、ポーランドから追放された。ヴィルヘルムは後に、ヤドヴィガの一族で相続権をめぐるライバルだったナポリ王カルロ3世の娘ジョヴァンナと結婚した。クラクフ大学を復興させるヤドヴィガ、ヤン・マテイコ

結婚相手にはヨガイラが決まり、1385年8月マウォポルスカの貴族たちとヨガイラの間でクレヴォ合同に関する条約が結ばれた。この条約では異教徒ヨガイラとリトアニア大公国カトリック教会に入信するのを条件に、ヨガイラがヤドヴィガと結婚してポーランドの主権を獲得し、ポーランド・リトアニア連合王国を形成するという取り決めがされた。12歳のヤドヴィガは、洗礼を受けて新たにヴワディスワフ2世と名乗った38歳のヨガイラと結婚した。


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