ヤクザ映画
[Wikipedia|▼Menu]
1966年、大手新聞がヤクザ映画を誌上で批判しても結局、映画の題名を新聞の発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画に利するだけという判断に立ち[47]、ヤクザ映画の批評を一切しないという密約を交わし[47]、ヤクザ映画はエロダクション並みにミニコミ扱いを受けた[47]。この処置に腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画の試写会は一切やらない」と開き直った[47]。今日の試写会状況は分からないが、1990年代ぐらいまでは、新聞記者映画評論家は各社の新作の試写をタダで見て、その引き換えとして新聞や雑誌に記事を載せていたため[47]、東映のヤクザ映画が好きな映画評論家はもとの庶民に戻り、ゼニコを払ってヤクザ映画を見なければならなくなった[47]

1973年、「政治の季節」もピークアウトした段階で、東映は実際の暴力団の実態をドキュメンタリーに近い質感で描く『仁義なき戦い』を製作し大ヒットさせると[出典 19]、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び[出典 20]、それまでのヤクザ映画は“任侠映画”と呼び区別されるようになった。「60年代の着流し任侠もの」と「70年代実録もの」を合わせて「ヤクザ映画」と呼ぶケースもある[51]

任侠映画というと今日東映作品を指すケースも多く[52]、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す[出典 21]。例外もあるが、東映の"任侠映画"は、大正明治時代を舞台にしているため、登場人物は着流しが多いが、"実録映画"は昭和の戦後を舞台にするため着流しではなく、スーツなどの洋服が多い[12]。これらはほぼ全て岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋の両プロデューサーによって製作された[出典 22]

任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし[1]、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで[出典 23]、『人生劇場 飛車角』シリーズに始まって[3]、『博徒』、『日本侠客伝[3]、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝[3]、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒[3]、『日本女侠伝』の各シリーズで頂点を迎えた[出典 24]。俳優は鶴田浩二高倉健藤純子北島三郎村田英雄らが主役になり[出典 25]池部良若山富三郎田中邦衛待田京介丹波哲郎嵐寛寿郎安部徹松方弘樹梅宮辰夫大原麗子三田佳子佐久間良子らが脇を添えた[出典 26]マキノ雅弘佐伯清加藤泰小沢茂弘石井輝男山下耕作らがメガホンを取った[出典 27]。任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいた[42]。『博奕打ち』シリーズ第4作『博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫に絶賛された[出典 28]。当時のヤクザ映画は、60年安保に揺れる「政治の季節」を反映していた[2]村上春樹は、早稲田大学に在学中の1960年代の後半は「大学へはほとんど行かず、新宿でアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていた」と話している[59]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:160 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef