1973年、「政治の季節」もピークアウトした段階で、東映は実際の暴力団の実態をドキュメンタリーに近い質感で描く『仁義なき戦い』を製作し大ヒットさせると[出典 19]、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び[出典 20]、それまでのヤクザ映画は“任侠映画”と呼び区別されるようになった。「60年代の着流し任侠もの」と「70年代実録もの」を合わせて「ヤクザ映画」と呼ぶケースもある[51]。
任侠映画というと今日東映作品を指すケースも多く[52]、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す[出典 21]。例外もあるが、東映の"任侠映画"は、大正や明治時代を舞台にしているため、登場人物は着流しが多いが、"実録映画"は昭和の戦後を舞台にするため着流しではなく、スーツなどの洋服が多い[12]。これらはほぼ全て岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋の両プロデューサーによって製作された[出典 22]。
任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし[1]、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで[出典 23]、『人生劇場 飛車角』シリーズに始まって[3]、『博徒』、『日本侠客伝』[3]、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』[3]、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒』[3]、『日本女侠伝』の各シリーズで頂点を迎えた[出典 24]。俳優は鶴田浩二・高倉健・藤純子・北島三郎、村田英雄らが主役になり[出典 25]、池部良・若山富三郎・田中邦衛・待田京介・丹波哲郎・嵐寛寿郎・安部徹・松方弘樹・梅宮辰夫、大原麗子・三田佳子・佐久間良子らが脇を添えた[出典 26]。マキノ雅弘・佐伯清・加藤泰・小沢茂弘・石井輝男・山下耕作らがメガホンを取った[出典 27]。任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいた[42]。『博奕打ち』シリーズ第4作『博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫に絶賛された[出典 28]。当時のヤクザ映画は、60年安保に揺れる「政治の季節」を反映していた[2]。村上春樹は、早稲田大学に在学中の1960年代の後半は「大学へはほとんど行かず、新宿でアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていた」と話している[59]。