ヤクザ映画
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東映東京で成功した任侠路線を東映京都改革の切り札として持ち込み[出典 14]、その任侠二大路線として、初の本格的ヤクザ映画、鶴田浩二主演「博徒シリーズ」と高倉健主演「日本侠客伝シリーズ」を企図した[出典 15]。『日本侠客伝』は岡田が、亡き主君のために復讐を成し遂げた義理堅い武士たちの物語、日本の古典忠臣蔵』をモデルに構想したものである[2]。『映画ジャーナル』は1965年10月号で「東映の岡田茂は、沈滞した京都でひとり奮闘し、鶴田浩二、高倉健を主軸に新時代劇ともいうべき明治・大正ものを生み出して、近年稀なヒットシリーズを連作して気を吐いている」と評されている[31]。同号は岡田と鈴木?成大映プロデューサーとの対談であるが[31]、岡田は「ぼくが京都の撮影所所長になって、時代劇ファンを呼び戻そうと、いろいろテを替え品を替えやってみたんですが、どうも結果がよくない。それで大映の『座頭市』というヒット時代劇を見て、『これはほんとうの時代劇なのだろうか、非常に特殊な作品系列に属するものでないか』などと考えたんです。それで思い切って、時代を明治、大正に求めてやってみた。『日本侠客伝』や『関東流れ者』のような大正やくざは、時代劇だという観念で作ったわけです」などと述べている[31]。岡田は博打シーンのリアルさを求め[41]、撮影所に本職のヤクザを招いて、キャスト・スタッフに演技指導させた[41]。本職が撮影所内を大勢で闊歩するようになったのはこれが始まり[出典 16]。これらは大成功し、次々に人気任侠シリーズが生まれ[1]、観客動員No.1に返り咲き、興行的にも大成功した[出典 17]。こうして東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた[43]。この東映任侠路線の成功が他社にも波及し[24]、その数が急増するにつれて、この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである[43]佐藤忠男は「この一連のやくざ映画を、それまでにもあった時代劇のやくざものや現代劇の暴力団ものとは違う独特の美学を持つものとして区別するために呼んだのが任侠映画という呼称」と述べている[3]。これらは少しは誤りで『人生劇場 飛車角』公開時のプレスシートに「東映やくざ路線の第一弾として重厚味を持った意欲作である」と明記され[24]、『月刊明星』1963年4月号の『人生劇場 飛車角』を紹介する頁にも「東映が新しく打ち出したやくざ路線の第一弾」と書かれており[44]、『人生劇場 飛車角』を公開する際に「やくざ映画」や「やくざ路線」という言葉は使用されていた[出典 18]

それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである[43]。やくざ映画は日本映画史の一角を占め、一つの様式美を作った[45]。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降[43]。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる[46]

1966年、大手新聞がヤクザ映画を誌上で批判しても結局、映画の題名を新聞の発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画に利するだけという判断に立ち[47]、ヤクザ映画の批評を一切しないという密約を交わし[47]、ヤクザ映画はエロダクション並みにミニコミ扱いを受けた[47]。この処置に腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画の試写会は一切やらない」と開き直った[47]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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