ヤアクーブ・マンスール
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以後アルフォンソ8世は1198年アラゴンペドロ2世と協力してナバラへ侵略、1200年にナバラを降伏させ劣勢から立ち直り、キリスト教諸国は互いに和睦してムワッヒド朝への反撃準備を進めることになる[13][14][15]

1198年3月にモロッコへ帰国して息子のムハンマド・ナースィルを後継者に指名、翌1199年に亡くなった。晩年は病気で体が弱くなり、亡くなるまで瞑想に耽る生活を送ったという[16][17]

国内においては経済発展に尽力し、灌漑整備による農業振興と鉱山の金銀採掘と交易拡大などでムワッヒド朝は繁栄を迎え、セビリアの大モスク、ヒラルダの塔(後にセビリア大聖堂の一部に転用)やラバトのハサン塔を始め、ムワッヒド朝時代を代表する優れた建造物が建設された。一方で、マンスールはムワッヒド朝のイデオロギーであるタウヒード主義を掲げて、これに反抗的なムスリム(イスラム教徒)を禁圧した側面もあった。当時のアンダルスには哲学者イブン・ルシュドが活躍していたが、1197年に哲学を異端として禁じ、ルシュドを追放した[18][19][20]。さらに異教徒に対しては容赦ない弾圧が加えられ、その厳しさは、北アフリカに住む全ての非ムスリムがマンスールの弾圧を避けてイベリア半島北部のキリスト教徒支配地域に避難したと言われるほどである。このようなムワッヒド朝の不寛容な姿勢は、後にキリスト教勢力のイベリア半島奪還を許す遠因となる。
脚注[ソースを編集][脚注の使い方]^ a b c d 那谷敏郎 1984, p. 160-161.
^ D・T・ニアヌ & 宮本正興 1992, p. 59-60.
^ 余部福三 1992, p. 285.
^ D.W.ローマックス & 林邦夫 1996, p. 160.
^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎, p. 112-113.
^ D・T・ニアヌ & 宮本正興 1992, p. 60-65.
^ a b 芝修身 2007, p. 131.
^ D.W.ローマックス & 林邦夫 1996, p. 161-162.
^ D・T・ニアヌ & 宮本正興 1992, p. 65.
^ D.W.ローマックス & 林邦夫 1996, p. 162-166.
^ 芝修身 2007, p. 131-132.
^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎, p. 113.


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