モー・バーグ
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両親ともユダヤ人で、プリンストン大学を優等で卒業。コロンビア大学法科大学院修了。

ラテン語、フランス語、スペイン語など複数のヨーロッパ系言語に堪能で、日本語もある程度理解し、9か国語を話すことができ[3]、毎日10種類の新聞を読んだ。

大リーグシーズン終了後の1923年秋頃、パリに旅行しカルチェ・ラタンに滞在。この滞在時に、多種の新聞に目を通す生涯の習慣を身につけた[4]。スポーツ記者からは「野球界で最も頭のキレる男」(the brainiest guy in baseball)[5]と呼ばれ、ケーシー・ステンゲルは「今までで最も異色な野球選手」(the strangest man ever to play baseball)と評した[6]

1932年に、全日本大学野球連盟の招きで、レフティ・オドールテッド・ライオンズとともに来日、東京六大学野球連盟に属する各大学で野球を指導した[7][8]。他の2選手が帰国後も日本国内を周遊し、満洲など大陸を巡り、東南アジアエジプトドイツを視察して帰国した[7]

1934年日米野球のためメジャーリーグ選抜として再来日した。一行が天皇皇后に謁見した際には日本語で天皇と会話をした[2]。滞在中の11月29日に大宮球場で開催された試合を欠場して、ジョセフ・グルー駐日アメリカ合衆国大使の娘を見舞うと偽って東京・明石町聖路加国際病院へ向かい、その屋上から、東京湾内の軍艦、兵器工場、製油所、皇居、工場群、鉄道線路など東京市街一円を16ミリカメラで撮影した[1][2]。このほか、武蔵野、三鷹、田無、保谷、船橋、習志野、川口、松戸も撮影し、これらモーが撮影した映像は第二次世界大戦中の1942年に行なわれたドーリットル空襲の航空母艦からの日本本土爆撃の第一資料として利用された[9][2]。日米野球終了後も帰国せずに日本に2週間滞在し、その後上海北京を経て満洲里からシベリア鉄道モスクワに向かい、沿線各地を撮影した[2]

引退後は、戦略諜報局(OSS)[10]やその後身の中央情報局(CIA)などの機関員であったことでも知られる。終戦後も対ソ連のスパイとして働き続け、生涯独身で、晩年は兄と妹と暮らした[11]

2018年には伝記をもとにした映画『ザ・キャッチャー・ワズ・ア・スパイ』が公開され、ポール・ラッドが演じた[11]
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