ジャン・ド・モンフォールがシャントソーの戦いで敗れて捕虜になったことで早々に決着がついたかに思われたが、徹底抗戦を唱えた妻ジャンヌ(英語版)がイングランドの援軍到着まで持ちこたえて戦争は長引くことになる。ジャン・ド・モンフォールはその後1345年に病死し、1347年にはブロワ派のシャルル・ド・ブロワがラ・ロッシュ=デリアンの戦いに敗れて捕虜となったためモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなる。モンフォール派はモンフォール伯妃ジャンヌ、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの下で抗争を続けたため、「2人のジャンヌの戦い」とも呼ばれる。 1352年、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣して、本格的にブロワ派の支援を再開した。レンヌとその南方の領土を占領すると北西に進撃し、半島先端の港湾都市ブレストに向かった。途上のプロエルメル奪還がフランス王ジャン2世の指令だった。この脅威に対し、騎士ウォルター・ベントレー率いるイングランド軍とモンフォール派の軍勢が結集し、8月14日にモーロン城近くのサン=レリ ウォルター・ベントレーは、下馬した装甲兵士 戦闘は激しく、両軍ともに大きな損害を受けた。フランス・ブロワ軍は800人、イングランド・モンフォール軍は600人が犠牲となった。フランス側の戦死者には、30人の戦いで英雄となったアラン・ド・タンテニアックも含まれていた。モーロンでの激戦の後もブロワ、モンフォール両家の抗争は続き、1364年のオーレの戦いでブロワ家の当主シャルル・ド・ブロワが戦死してようやく戦争は集結に向かうことになる。
フランスの本格的介入
戦闘
戦後
関連項目
百年戦争
ブルターニュ継承戦争
ブルターニュ公国
フランス王国
イングランド王国
参考文献
Wagner, John A. (2006). Encyclopedia of the Hundred Years War. Greenwood Press. p. 212. https://books.google.com/books?id=uVZ893wOWgoC&pg=PA214&dq=%22Battle+of+Mauron%22&hl=en&sa=X&ei=bq9HUZnaJcTY2gWggoHQBQ&ved=0CDMQ6AEwAQ#v=onepage&q=%22Battle%20of%20Mauron%22&f=false
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