モーリス・ルブラン
[Wikipedia|▼Menu]
父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛(そもう)工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた[9]
職業作家へ

当時、ルブランはある恋愛ごとで後ろ指をさされ、ルーアンに居づらくなっていた[10]。一方で、しばしば訪れていたパリでは一歳年下の寡婦マリー・ラランヌと知り合い、恋愛関係を結ぶに至っていた。田舎に耐えられなくなり、文学的成功も夢見ていたルブランは、ロー・スクールへの通学を口実として1888年の末にパリのモンマルトルのカレ6番地へと居を移す。生活資金は1891年に全額支払われる予定だった母親の遺産がら捻出され、1888年12月29日には父より2万フラン、1889年から1890年の間には約7万フランを受け取っている[11]

1889年1月10日、マリー・ラランヌと結婚。ただし当時の風潮から結婚式は行わなかった。またこの頃、「文芸酒場」として名を成し始めていたキャバレー黒猫」に足繁く足を運び、ルネ・モロやモーリス・ドネー(英語版)等多くの文人・芸術家たちと交友した。結婚後、しばらくルブランはノルマンディを中心とした生活を送った。

兵役の再訓練は、妻マリーの妊娠を口実に1890年の秋に延期した。この結果、当時パリを襲ったインフルエンザの影響から幸運にも逃れられることができた。1889年11月28日、ニースにて長女マリー・ルイーズが誕生。この頃の生活拠点はニースではマセナ広場近辺のアルベルティ通り18番地のヴィラ・ラランヌ、パリでは8区、クラベロン通りだった。

1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌(ルヴェ・イリュストレ)」において短編「救助」にて商業デビューを果たす。同作は4月3日にルネ・モロが編集長を務める「挿絵入り盗人(ヴォルール・イリュストレ)」誌にも掲載される運びとなる。9月22日から11月20日までヴェルサイユの第11連隊に原隊復帰、伍長階級として再訓練を受ける。

11月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社から短編集「Des couples」を自費出版。「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」との献辞が記されていた。しかし売上は惨憺たるもので、後にルブランは「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」とぼやいている[12]

11月23日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近にあるソルフェリーノ庭園で行われることを知ったルブランは、パリへの帰路の列車で、ギ・ド・モーパッサンエドモン・ド・ゴンクールエミール・ゾラ、ギュスターヴ・トゥードゥーズ(フランス語版)が乗車するコンパートメントに潜り込み、「Des couples」の書評を乞おうと試みるものの、彼らは除幕式で疲弊しており、到底書評を願える空気ではなかった。この件はルネ・モロが「シャンピモン」の筆名にて「挿絵入り盗人」誌が記事にし、同時に「Des couples」への好意的な書評を掲載している[13]

1891年の夏にはヴォコットに滞在、エトルタ近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れたという話を友人にしているが、モーパッサンが最後にここを訪れたのは1890年の夏であるため、虚言の可能性が著しく高い[14]
中堅作家へのキャリアの積み重ね

ルブランはヴォコットには1894年まで毎夏滞在することとなる。1892年にはモーリス・ドネーに依頼され、この地で喜劇脚本「女の平和」を共同執筆するが、ドネーが共同執筆者である彼の名前を出さずに脚本を発表したことにより、ルブランは強く落胆する[15]。けれども、同時期にエトルタで知り合ったマルセル・プレヴォー(英語版)は「ジル・ブラス」紙のヴィクトール・デフォセ会長を紹介、これによりルブランは「ジル・ブラス」にコラムニスト兼投稿小説家として採用される。10月3日には早速ルブランの短編「嘘だ!(副題:苦しむ人々)」が掲載され、これによりルブランの名が世に知れ渡るようになった。同日、第二訓練期間としてルブランは第11連隊に原隊復帰、10月30日まで再訓練を受ける。12月3日、かねてより入会を求めていた作家協会の準会員となる。これは「女の平和」におけるルブランの著作権を守るためにも必要なことであった。12月22日、グラン・テアトル(英語版)で「女の平和」の公演の幕が開かれる。1893年4月9日、「ジル・ブラス」で長編小説「Une femme」の連載が開始、5月23日にオランドルフ社より単行本が出版される。オランドルフ社からは1894年4月10日にも「Ceux qui souffrent」が出版されることとなる。1894年6月11日には「自転車」のタイトルで「ジル・ブラス」に時評が掲載される。1895年4月4日、セーヌ県裁判所において既に疎遠となっていた妻マリーからの離婚請求が認められ、4月27日に離婚が成立する。これに関し、ルブランは「ジル・ブラス」の時評で「あなたは、平凡なのです」と前妻マリーを評した[16]。11月初旬にはオランドルフ社から「L’?uvre de mort」が出版される。これは「クーリエ・フランス」や「新聞と本の雑誌」等の書評において絶賛を受けた[17]。ルブランは「ジル・ブラス」以外の著名誌への掲載を望みはじめ、ポール・エルビュに「両世界評論」誌への口利きを頼むが、結局この試みは失敗に終わった[18]

1896年3月、スポーツジャーナリストのピエール・ラフィット(フランス語版)が設立した自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会。これが後にルパンシリーズを生み出すきっかけとなる[19]。5月12日には「ジル・ブラス」に「征服された自然」を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示している。また同月、オランドルフ社から中短編集「Les Heures de mystere」が出版される。1897年初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中だったマルグリット・ウォルムセールと出会い、交際を始める[20]。4月末、オランドルフ社より「アルメルとクロード」が出版される。12月、「ジル・ブラス」に自転車を主題にした小説「Voici des ailes!」が掲載される。「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」の著者であるジャック・ドゥルワールはこの作品について、「ニーチェの響きが見出せる」「自転車は人に超人の生を与えるのだ」と評している[21]。12月20日、当時発行部数65万部を誇っていた日刊紙「ジュルナル・デ・デバ(フランス語版)」に短編を寄稿。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef