モーリス・ラヴェル
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1898年3月5日国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは[3]あくる20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となった。いっぽうで作曲の大胆さと自身が「解放者」と目すシャブリエサティへの賞賛は、伝統主義が支配的なサークル内でおおくの反目を買った。

1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなった。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされた。 『ソナチネ』(Sonatine, 1903年)、『序奏とアレグロ』(Introduccion et allegro, 1906年)、『スペイン狂詩曲』(Rapsodie espagnole, 1907年)、組曲『マ・メール・ロワ』(Ma Mere l'Oye, 1908年)、『夜のガスパール』(Gaspard de la Nuit、1908年)は、アロイジウス・ベルトランの詩に触発されて書かれた。前衛作曲家エリック・サティ。ラヴェルは伝統主義に抗って、サティを称賛、擁護した。

1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。1901年、2回目の挑戦ではカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった[4]1902年1903年は本選において入賞を逃し[5]1904年はエントリーを見送った。翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった[6]

1907年、歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると批判はおさまった。そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。

1909年4月、ロンドンで初めての海外ツアーに参加し、自身がドーバー海峡の向こうで高く評価されていることを知る。1910年、保守的な「国民音楽協会」と決別、シャルル・ケックランらと現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指す団体「独立音楽協会」を旗揚げし、創立者のひとりとして名を連ねた。1911年、詩人フラン=ノアンによって台本の書かれたオペラ『スペインの時』(L'Heure espagnole)の初演が催されたが、大衆、とりわけ批評家から「ポルノ」呼ばわりされ、不評裡に終わった。当時は台本のユーモアも、ラヴェルの大胆なオーケストラもほとんど理解されなかった。第一次世界大戦。トラック輸送兵として参戦したラヴェルは終戦後、以前のような旺盛な創作欲を発揮することはなくなってしまう。

第一次世界大戦勃発後、パイロットとして志願したが、体重が規定に「2キログラム」満たなかったことからその希望は叶わなかった。1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された[7]。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであり[8]、当時の前線ヴェルダン 付近まで到達した。道中、腹膜炎となり手術を受けた。結局、終生戦争の傷から回復することはなかった。

大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓[9]を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは極端に落ちてしまった[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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