モーリス・ブランショ
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フョードル・ドストエフスキーの処刑直前の恩赦の体験に比する人もあるこの体験は、例えば小説『白日の狂気』に反映されており、最後の小説となった『私の死の瞬間』ではこの体験がそのまま用いられている。
顔なき作家

戦後、ブランショは、執筆活動に専念し、創作と思索を深めていくことになる。1946年にバタイユが創刊した雑誌「クリティック」の編集に協力しながら、書くとはどういうことかについて考察し、ステファヌ・マラルメフランツ・カフカエクリチュールに見出した書き手の不在や死の経験を、また無為や忘却といった事柄を書くことそのものに結びつけていくことになる。戦後のブランショは顔写真一枚公開することなく、ただ書かれたテクストを書物として提示するのみとなるが、それは「書くとはどういうことか」について考えていく中で彼が辿りついた、「書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き受けたことを示すものでもある。このことから、ブランショは、「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになる。

小説と批評の両面において注目されるようになったブランショは、1955年に『文学空間』を発表した。さまざまな文学者や文学作品を論じながら、マルティン・ハイデッガー存在論を批判的に応用し、書くことについて、エクリチュールについて、について、「非人称の死」について、そして書くにあたって書き手が潜り彷徨う場としての「文学空間」について論じたこの本によって、ブランショは文学についての思想・思考に新たな一歩を記し、批評の新しい局面を開くとともに、現代思想の最前線に位置する思想家として知られるようになる。ブランショの影響はロラン・バルトをはじめ多くの批評家思想家に見られ、その反響は特にポスト構造主義の哲学者たちに見出せる。また彼は同年にアラン・ロブ=グリエの小説『覗くひと』の評価をめぐって起きた「ヌーヴォー・ロマン論争」においてはロラン・バルトらとともにロブ=グリエ擁護の論陣を張るなど、20世紀後半の文学の新しい展開とその評価の確立にあたっても大きな役割を果たした。その後は小説と批評とが接近する様相を見せはじめ、1962年、小説『期待 忘却』や1973年、評論『彼方への一歩』ではどちらも断章が連ねられた形式がとられている。

政治的には、エミール・ゾラジャン=ポール・サルトルのような、知識人として公衆の面前に姿を現して意見や主張を述べ自らの影響力の大きさを利用して社会を動かそうとする政治参加の手法に批判的立場をとりつつ、自らの政治的活動を模索することになる。アルジェリア戦争の際には、アルジェリアの独立を阻止しようとするフランス政府を批判し、マルグリット・デュラスやディオニス・マスコロらとともに命令に対するフランス軍兵士の不服従を擁護する「121人宣言」に署名したりした。デュラスらとは、1968年五月革命でも共に「作家学生行動委員会」を組織し、街頭行動にも参加して、無署名文書を執筆したことでも知られる(ブランショはデュラスに対して作家としても高い評価を与え、「彼女の書いたいくつかの本をもはやそれ以上に先はないほど完璧に」愛したことがあると語っており、デュラスも小説『ユダヤ人の家』をブランショに捧げている)。五月革命はブランショにとって重要な意味を持った事件のひとつであり、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれた論考『明かしえぬ共同体』では彼自身の共同体についての思想やレヴィナスの他者論などが織り交ぜられながら“68年5月”が振り返られている。

晩年になるにつれ次第に著作の発表が間遠になったが、それでも執筆は続けられた。1994年には、自らが銃殺されかかった体験を簡潔かつ慎重な文体によって記した小説『私の死の瞬間』を発表して反響を呼ぶ(ジャック・デリダの『滞留』は、この小説に触発されたデリダ自身の講演をもとにしている)。これ以降のブランショの著作はどれも評論、論考であった。2003年、95歳で死去。フランスでは新聞各紙が大きく取り上げ、デリダは墓地でのブランショの葬儀に際して参列者を前に弔辞を読んでいる。死去発表の4日後に「ル・モンド」紙に掲載された、アメリカの対イラク戦争に反対する市民活動「Not in our name(我々の名において為すな)」のアピールにはブランショの署名も記されていた。
作風と思想

ブランショは、その文学的営為の根本において、マラルメフランツ・カフカから多大な影響を受けた。日常的な言葉(物事や情報を道具的に交換するための言葉)ではない本質的な言葉として文学的言語を考えたマラルメの視点、また本質的な言葉によって創られた純粋な作品においては語り手・書き手は消滅して「語に主導権を譲る」というマラルメの考えは、ブランショの創作においても文学思想においても決定的な重要性を持っている。同様に、カフカが日記やノートに書き記した様々な記述、例えば死や非人称的なものと書くこととの密接な関わりを記した箇所や、「私」から「彼」への移行によって文学の豊かさを経験したと記した箇所などからも、ブランショは絶大なインパクトを受けている。この二人からの影響を継承し、また友人たちや他の文学者・思想家たちと交流し感応しながら、ブランショは小説においても批評においても独自の地歩を達成していった。

小説について、『謎の男トマ』や『アミナダブ』、『至高者』などの初期の作品では、ジャン・ジロドゥーやカフカの影響が見られ、一応は小説的でありつつも既に従来のリアリズムからの逸脱・転倒が起きている。また、これらの作品での主人公の体験する彷徨や紆余曲折が、ブランショの文学批評における「書き手の彷徨」や「死を潜ること」と対応していると見る評者もいる。『死の宣告』以降はさらに伝統的リアリズムからの離脱が進み、作品の簡約化・簡潔化が進むと共に、次第に登場人物の固有名が明かされない傾向が強くなっていく(1950年に刊行された『謎の男トマ』改訂版で大幅な削除・短縮が行われたことに、このような作風の変遷が典型的に表れているとされる)。名前のわからない1人称の語り手による回想という形式の作品がいくつか続くなかで、作品の突き詰めはいっそう進み、『期待 忘却』では物語そのものが断片化・断章化され、そのなかでの名前の無い男女の対話がおこなわれるという形をとる。晩年の最後の作『私の死の瞬間』では語り手自身の問いかけを孕んだ簡潔な筆致によって一人の男の銃殺されかかる体験(ブランショ自身の実体験である)が記された。

文学思想においては、前述のマラルメやカフカをはじめ、ライナー・マリア・リルケフリードリヒ・ヘルダーリンアルベール・カミュハーマン・メルヴィルなどさまざまな作家・詩人の批評を通して、自らの思想を提示した。日常の活動的な「営み」から逸脱した「無為」として文学活動を捉え、その無為のさなかで作家は自らの死に臨み、死を前にして自らを支配し続け、顕現する非人称的なもののさなかを潜り、まさに「文学空間」を彷徨うのだ、それが書くということなのだと語るブランショは、その行為をオルペウスの冥界下りになぞらえている(このオルペウスというモチーフもマラルメを経由している)。神秘神学ユダヤ思想とも共鳴しながら提示されたブランショの文学思想は、それまでの「創作とは何か」ということについての考えに大きな変化をもたらすとともに、ロラン・バルトの『エクリチュールの零度』と並んで、現代思想におけるエクリチュールの問題の前景化に多大な役割を果たした。


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