モードック戦争
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ロスト川の戦いから数ヶ月前、キャプテン・ジャック酋長は、戦争が起こった場合には、彼とその仲間はチュール湖南岸にある溶岩層のある地域でうまく自分達を守ることができるだろうとみていた。ロスト川の戦いの後にモードック族が撤退したのがその長さ19q、幅16qほどの、1500年の歴史のある溶岩地帯だった。女・子供合わせた165人のモードック族のバンドが、ここに立てこもり、抵抗戦を始めたのである。

この地域は間もなく有名になり、今日では「キャプテン・ジャックの砦」と呼ばれている。モードック族は自分達を守る為の場所を選ぶときに、溶岩の尾根、割れ目、窪み、洞穴など防衛の観点から理想的な、この自然の地形を利用した。モードック族がこの砦に入った当時、チュール湖が砦の北にあって、飲料水の水源として機能していた。

12月3日、ジャンプオフ・ジョーとその民兵隊が砦の周縁部に到着し、乾いたクリークの川床辺りを偵察しているときに待ち伏せにあった。彼らは川床を掩蔽物にしようとしたが、直ぐに圧倒され、23名全員が戦死した。

12月21日、砦から偵察に出たモードック族の1隊がランド牧場で弾薬輜重隊を攻撃した。1873年1月15日までに米軍はラバベッズ近くの戦場に400名の部隊を揃えた。最も多く部隊を集結させたのは砦の西12マイル (20 km) のヴァン・ブローマー農場だった。他にも砦の東10マイル (16 km) のラニ牧場に部隊を置いた。フランク・ホイートン大佐が正規軍とカリフォルニア州とオレゴン州からの志願兵を合わせ、全部隊を指揮した。.1月16日、R・F・バーナード大佐の指揮するランド牧場を出た部隊が、ホスピタルロック近くでモードック族と小競り合いを演じた。
砦での最初の戦い

1月17日朝、米軍が砦に向けて前進した。霧がかかっており、兵士達は一人のモードック族も見つけられなかった。モードック族の呪い師、「カーリー・ヘッデッド・ドクター(くせ毛の呪い師)」は霧を出す為の儀式を行っていた[3]。有利な場所を占めていたモードック族は西と東から侵攻して来た米軍を撃退した。この日の攻防で、米軍は35名が戦死し、士官5名と兵士20名が負傷した。米軍は大敗北したが、これは兵士の大半が新兵だったため、モードック族の撃った弾丸に驚いて散り散りに逃げだしたためだった。キャプテン・ジャックたちモードック族には、女子供を含め全部で約165名だった。その中で戦士は53名に過ぎなかった。この日、モードック族に損失は無かった。

この敗北に当惑したキャンビー将軍は、自ら陣頭に立ち、軍勢を約700人に増強した。これと並行して、1月25日アメリカ合衆国内務長官コロンバス・デラノがモードック族との問題に対処する和平委員会を招集した。この委員会はアルフレッド・B・ミーチャム委員長と、ジェシー・アップルゲイトとサミュエル・ケイスが委員になり、キャンビー将軍も助言者に指名された。
和平委員会での交渉

2月19日、和平委員会はラバベッズの西、フェアチャイルド牧場で最初の会合を開いた。キャプテン・ジャックとの会見を手配するための使者が派遣された。ジャックは、委員会が2人の開拓者、ジョン・フェアチャイルドとボブ・ホイットルをラバベッズの縁に派遣するならば、彼らと話をすることに同意した。フェアチャイルドとホイットルがラバベッズに行くと、キャプテン・ジャックは、もし委員会がイーレカのイライジャ・スティール判事を同道してラバベッズに来るならば、委員会と話をすると告げた。スティールはキャプテン・ジャックと友好的な間柄だった。スティールは砦に行った。砦での1夜の後に、フェアチャイルド牧場に戻り、モードック族は策略を考えており、委員会の全ての努力は意味の無いものになると、和平委員会に伝えた。ミーチャムは内務長官に電報を打って、スティール判事の意見を知らせた。内務長官はそれに対する返事で、ミーチャムに休戦のための交渉を継続するよう指示した。A・M・ローズバラ判事が委員に追加された。ジェシー・アップルゲイトとサミュエル・ケイスは委員を辞任し、エリエザー・トーマス牧師とL・S・ダイアーが後任になった。

白人はキエントプース(キャプテン・ジャック)酋長をこの反乱の「指導者」とみなし、彼と和平を結びたがった。しかし、インディアンの社会は合議制民主主義が基本であり、酋長は本来「調停者」であって、「指導者」でもなければ「部族長」でもない。キエントプースは「話のわかる白人の酋長」としてイライジャ・スティールとの合議折衝を求めているのである。しかし白人はあくまでキエントプースを「軍事的指導者」と誤解しているから、彼との和平調印がすべての解決策だと勘違いしているのである。酋長であるキエントプースに、部族員全員を従わせるような権限は無い。

和平交渉は、両陣営の中間の無人地帯で開かれ、何の進展もないままだらだらと数カ月続いた。モードック族は生まれ故郷のそばに小さな保留地を設置するよう要求して譲らなかった。インディアンの小規模なバンドが、アメリカ政府の要求を公然と拒否する光景は、全米に報じられ、アメリカ白人の同情と称賛を呼んだ。

4月、砦から西2.5マイル (4 km) のラバベッズの縁にジレム・キャンプが設営された。アルバン・C・ジレム大佐が、E・C・メイソン大佐の指揮するホスピタルロックの部隊を含め、全部隊を指揮することになった。

4月2日、委員会とキャプテン・ジャックはラバベッズの砦とジレム・キャンプとの中間地点で会合した。この会合でキャプテン・ジャックは、
モードック族全員を一切訴追しない

モードック族の土地からの米軍の撤退

モードック族自身の保留地を選択する権利

の三点を要求した。これに対し白人の和平委員会は、
キエントプース(キャプテン・ジャック)とモードック族は、知事が選定する保留地に移動永住すること

「白人入植者の殺害」という罪を犯したモードック族員を殺人罪で裁判に掛けるため、米軍に引き渡すこと

の二点を提案した。長い検討が行われた後で、何も決まらずにこの会合は流れた。キエントプースはあくまで酋長(調停者)であるから、部族員にこれらの要求を検討するよう提案は出来るが、「部族員を引き渡す」などといった権限はキエントプースを始め、部族の誰も持っていない。白人和平委員会の要求は、酋長を首長と誤解したことからくるものであり、キエントプースからすれば無理難題だった。インディアンの社会のルールで言えば、白人を殺した部族員がいれば、白人はその個人と直接交渉するべきなのである。

部族では会議が開かれたが、平和的な解決を望んだキャプテン・ジャックに反対意見が相次いだ。ジョン・ションチンとフッカー・ジムの仲間たちは、米軍の指導者を殺せば米軍を退かせることになると考え、ジャックに和平委員会のメンバーを殺すべきだと提案した。彼らは協議の場で、女の衣服を着て交渉を続けるジャックを恥じた。呪い師のカーリー・ヘッデッド・ドクターは、彼の呪術によってモードック族に死人は出ない、と保証した。 結局、キャプテン・ジャックは調停者としての酋長の立場から、「進展が見られない場合に委員会を攻撃する」という議会の多数決に従った。インディアンはすべての決めごとを合議で行うからである。

4月5日、キャプテン・ジャックはアルフレッド・B・ミーチャムとの会見を要請した。ミーチャムはジョン・フェアチャイルドとローズバラ判事、通訳を務めるフランク・リドルとトビー・リドルを同行し、ジレム・キャンプの東約1マイル (1.6 km) の平らな場所に立てられた休戦のテントでキャプテン・ジャックと会見した。キャプテン・ジャックはそのラバベッズを保留地として与えられるよう要求した。この会見も合意無くして終わった。ミーチャムがキャンプに戻った後で、4月8日に休戦のテントで再度和平委員会と会見することを求める伝言がキャプテン・ジャックに送られた。モードック族の女性で白人開拓者フランク・リドルの妻、トビー・リドルはこの伝言を持って行ったときに、モードック族が和平委員会のメンバーを殺そうと計画していることを知った。

4月8日、和平委員会が休戦のテントに向かって出発するその時に、ジレム・キャンプの上にある崖上の信号塔から伝言が届いた。その伝言には塔から見たところで、5人のモードック族が休戦のテントに居り、約20名の武装したモードック族が近くの岩陰に隠れていると言っていた。委員会はモードック族が攻撃を計画していることを認識した。委員会メンバーはキャンプに留まることで意見が一致した。トーマス牧師はモードック族による攻撃計画について警告を与える代わりにキャプテン・ジャックと会見する別の機会を設定するよう主張した。4月10日、キャプテン・ジャックに翌朝休戦のテントで和平委員会と会見することを求める伝言が送られた。
和平のテントでの殺人ボストン・チャーリー、1873年

4月11日朝、和平委員会メンバーのキャンビー将軍、アルフレッド・B・ミーチャム、トーマス牧師およびL・S・ダイアーが、フランクとトビーのリドル夫妻を通訳として、ボストン・チャーリー、ボーガス・チャーリー、キャプテン・ジャック、ジョン・ションチン、ブラック・ジムおよびフッカー・ジムと会見した。幾らか話が進んだ後に、モードック族が武装していることが明らかになり、キャンビー将軍はワシントンから命令が来るまで委員会はキャプテン・ジャックの条件を飲めないとジャックに伝えた。ジョン・ションチンは怒りのムードの中で保留地候補地としてホット・クリークを要求した。キャプテン・ジャックが立ち上がって数歩遠ざかった。ブランコ(バーンコ)とスロラックスという2人のモードック族がライフル銃で武装し、岩の間に隠れていた所から走り出た。キャプテン・ジャックが振り返って発砲せよという合図を送った。キャプテン・ジャックは隠し持っていた拳銃を1発発射して丸腰のキャンビー将軍を撃ち倒し、ナイフでとどめを刺した。トーマス牧師は致命傷を負った。ミーチャムは重傷だった。ダイアーとリドルは走って逃げ出した。トビー・リドルが「兵士達が来ている!」と叫ばなかったら、ミーチャムは間違いなく殺されていただろう。

モードック族の委員殺害によって、和平のためのあらゆる努力が水泡に帰した。白人アメリカ人はこれに怒り、ウィリアム・シャーマン将軍はキャンビーの後任者にモードック族の撃滅を命じた。シャーマンはこう命令に付け加えている。「彼らを完全に根絶やしにしてもよろしい」
砦での2回目の戦い

4月15日、米軍は1000人の陸軍歩兵部隊に加え、砲兵隊とインディアン斥候75人から成る一大軍団を組織した。モードック族に対する3日間に渡る総攻撃が開始され、西のジレムのキャンプと北東のホスピタルロックにあったメイソンのキャンプから部隊が前進した。戦闘は1日中続き、夜の間も部隊はその陣地に留まった。4月16日、両部隊の前進はモードック族からの激しい銃撃に曝された。その夜、米軍はチュール湖岸にあったモードック族の水源を遮断することに成功した。4月17日朝までに砦に対する最終攻撃の準備が全て整った。前進命令が発せられたとき、部隊は砦に突撃した。

4月16日の午後と夜のチュール湖岸での戦闘の後、砦を守るモードック族は、湖岸を占領した米軍によって水源が断たれたことを知った。4月17日、米軍が砦への突撃命令を受ける前に、モードック族は米軍が陣地を移動する間隙をついて、岩の割れ目を抜けて逃亡した。4月15日から17日に掛けての砦に対する攻撃で、米軍は入り組んだ地形に阻まれて威力を発揮できず、結局1人の士官と1人の兵士が戦死し、13名の兵士が負傷した。モードック族の損失は2人の少年だけであり、直接殺せたのは一人だけで、後の一人は斧で突破口を開こうとしているときに砲丸が爆発して戦死したと記録されている。モードック族の女性数人は病気で死んだと報告された。
サンドビュートの戦い

4月26日、エバン・トーマス大尉が5名の士官、66名の兵士および14名のウォームスプリング族インディアンの斥候を指揮してジレム・キャンプから出発し、モードック族の所在を突き止めるためにラバベッズを偵察した。尾根に取り囲まれた平たい場所であるサンドビュート(現在のハーディンビュート)の基地で昼食を摂っているときに、トーマス大尉とその部隊はスカーフェイス・チャーリーが指揮する22名のモードック族に攻撃された。部隊のある者達は算を乱して逃げ出した。留まって戦った者達は戦死するか負傷した。損失の中には、4名の士官が戦死して他の2名が負傷し、そのうち1人は数日後に死んだ。兵士は13名が戦死し、16名が負傷した。

この虐殺の後、ジレム大佐の解任を要求する声が高まり、5月2日、コロンビア方面軍の新しい指揮官であるジェファーソン・C・デイビス名誉准将がジレムを指揮官から解任し、自ら野戦指揮官に就いた。
ドライ湖の戦い

5月10日の夜明け、モードック族はドライ湖の米軍宿営地を攻撃した。米軍が突撃し、モードック族を壊走させた。米軍の損失としては、5名が戦死、そのうち2名はウォームスプリング族インディアンの斥候であり、12名が負傷した。モードック族は5名の戦士が殺されたと記録された。この5名の中にモードック族の中でも著名な戦士、エレンズマンが居た。モードック族にとって初めての敗北だった。エレンズマンの死によってモードック族の中に不和が生じ、分裂を始めた。フッカー・ジムらのモードック族の一団が米軍に投降し、キャプテン・ジャックの捕縛への協力に同意し、その見返りにチュール湖畔での白人入植者の殺害とキャンビー将軍ら委員に対する殺害の件を不問とする条件を米軍に呑ませた。


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