モータリゼーション
[Wikipedia|▼Menu]
大量生産時代の幕開けの象徴とされるフォード社のT型(フォード・モデルT)の生産は1908年に開始された[5]1927年の生産終了までに約1,500万台が販売され、当時の馬車の数と入れ替わるほどの革命的商品であった[5]

フォードT型はベルトコンベア式の大量生産によって安価な価格を実現し、当時のアメリカでの労働者の平均年収600ドルに対してフォードT型は850ドル(のちにさらに値下げ)で販売された[6]。また、フォードT型は農機農具の修理技術があればユーザーが自身で修理できるような構造で設計された[6]

ところが、ヘンリー・フォードの品質の確かな商品を安く販売するという考え方は1920年代になって行き詰った[6]。自動車市場飽和状態によって買い手の中心が買い替え客へとシフトしたため、同じシンプルなスタイルのフォードT型は買い替え商品としての魅力に欠けていたためである[6]

フォードに対抗してゼネラルモーターズ(GM)は重複する車種体系を整理するとともに、定期的なモデルチェンジ(計画的陳腐化)による買い替え需要の喚起を促した[7]。また、ヘンリー・フォードは自動車はお金を貯めて買うものと考えていたが、GMのアルフレッド・スローン下取り販売や分割払いを積極的に導入し、1920年代後半にGMはフォードを抜いて世界一の自動車会社となった[7]

1937年にはアメリカでの自動車生産台数は約400万台に達し、この頃にはアメリカでのモータリゼーションが完成したとされる[7]

ヨーロッパ各国でも、1930年代にはモータリゼーションが始まっていた。特にドイツアウトバーンの整備および国民車構想は、ヨーロッパのモータリゼーションを一気に加速させた。
高度経済成長期

日本では、1964年東京オリンピックの直後からモータリゼーションが進んでいった。道路特定財源制度等を使った高速道路の拡張や鋪装道路の増加等の道路整備、一般大衆にも購入可能な価格の大衆車の出現、オイルショック後の自動車燃料となる石油低価格化などが自家用車の普及を後押しした。

まず高度経済成長期に大衆車の量産が開始され、1960年代後半から1970年代にかけて一般家庭にも普及する。いざなぎ景気時代には「三種の神器」としてカラーテレビ・自動車・クーラーが「3C」と呼ばれ庶民の夢となった。この時点での自家用車の普及はある程度収入のある壮年男性、しかも家庭を持つ一家の主から始まった。夫や父の運転する車でレジャーに出かけることが憧れの的となり、自動車メーカーもファミリー層に向けた宣伝広告を行った。まだこの時期には「一家に一台」のレベルであり、運転免許を持たない女性も多かった。この時代に20代から30代であった女性が2020年代には70代から80代の高齢者となっており、この世代の女性は運転免許を取得しないまま高齢となって交通弱者になっていることが多い。

しかし自家用車の普及に道路などのインフラ整備が追いついていなかったこともあり、1970年代には交通事故件数・死者数がピークとなり「交通戦争」とまで呼ばれた。

またこの時期には、国鉄の赤字経営のため度々運賃が値上げされる一方で、多くの既存路線の増発と高速化が進まなかったこと、労使対立による現場の綱紀の乱れやストライキ遵法闘争の乱発により運行が不安定化したこと、鉄道車両鉄道駅などにおけるサービスの軽視などにより鉄道離れを加速させた。1970年発売の流行歌老人と子供のポルカ』では世相を反映して「ゲバ・スト・ジコ」と、学生運動と国鉄のストライキと並んで交通事故が歌われている。

日本列島改造論により高度成長期から道路整備が推進され、日本全国が高規格道路で接続されていく。鉄道はそれよりも何十年も早くから全国ネットワークを形成していたのだが、全国を結ぶ道路網の整備に加え、国鉄の労働運動激化によるストライキの頻発もあり、貨物輸送の中心は鉄道からトラックへシフトし、1975年の国鉄労組によるスト権ストは貨物の流通を阻止できず失敗に終わった。道路網の整備は自家用車普及にも拍車をかけた。
車社会の完成

一方で日本独自の規格として進化を遂げた軽自動車が低価格な自動車として普及する。当初は主に軽トラック軽バンとして業務用を中心に使われていたが、その後に軽自動車の性能や居住性が向上したことから、手頃な価格と税制による維持費の安さ、女性をターゲットにしたパステルカラーや可愛らしいデザインでセカンドカーとして普及した。1980年代後半から1990年代にかけては女性の社会進出が進み、1999年には男女雇用機会均等法が改正された。若い女性も男性と同じように働くため、運転免許を取得することが当たり前になっていく。

高度成長期に壮年男性から始まった自家用車の普及は、「一人一台の足」となり、日常生活のあらゆる場面で使用されるようになった。かつては庶民の夢や憧れであった自家用車は、世紀が変わる頃には日常の足としてどこへでも運んでくれる存在となっていた。
弊害の顕在化

交通事故や大気汚染が改善に向かう一方、新たな弊害が顕在化するようになった。

自家用車の普及が進んだことから、まず路線バスの輸送人員が減少していく。東武鉄道(現:東武バス)の北関東からの大規模な撤退により、1986年には群馬県館林市が日本で唯一の路線バスが走らない市となったことが話題を呼んだ。また1980年代には赤字ローカル線の廃止が進み、1987年には国鉄分割民営化が行われた。1980年代後半から1990年代にかけては地方の公共交通の衰退が進み、交通が不便だから車に乗る、車に乗るから鉄道やバスが衰退するという悪循環が進んだ。大手私鉄系バス会社が採算性の低下したバス事業を分社化し始めたのも1990年代からである。

さらに少子高齢化の進展により、地方だけでなく大都市部でもバス路線の廃止や減便が進み、1990年代後半から2000年代からは各地でブームのようにコミュニティバスの運行が開始されるが、それはすなわち民間企業の営利事業として公共交通が成り立たなくなっていったということでもあった。鉄道が廃止されバスに代わり、その一般路線バスも廃止や減便により廃止代替バスやコミュニティバスに置き換えられ、それすら利用者が少なく乗合タクシーデマンド型交通に代替されていく。こうしてもはや自家用車を手放しては生きていけないところまでモータリゼーションが進んでいった。

21世紀に入ると、地方都市ではライフスタイルの郊外化ドーナツ化現象や、東京一極集中による人口流出が進み、日本各地の地方都市では駅前の中心市街地が衰退して「シャッター通り」と呼ばれるような空洞化が深刻になる。バブル崩壊以降の不景気による百貨店の衰退もこれに拍車をかけた。かつての普段は徒歩で商店街に行き、ハレの日は鉄道やバスで駅前の中心市街地の百貨店に行くというライフスタイルが崩れ、自家用車を足代わりにして幹線道路のロードサイド店舗でまとめ買いし、百貨店の代わりに巨大ショッピングモールに行くというライフスタイルが普及して、地方都市のターミナル駅周辺は急速にその求心力を失っていった。結果的にこれら地域では車がないと生活不能の状況に陥り、買い物難民医療難民、高齢者による事故などの問題が生じた。

自動車検査登録情報協会の資料[8]によると、2010年3月末の都道府県別の自家用乗用車1世帯あたり保有台数は、福井県が1位となり、以下富山県、群馬県、岐阜県と続いている。一方、最下位は東京都で大阪府、神奈川県と続く。上位となった県に共通する主な要素としては、農山漁村や小規模都市など鉄道路線バスといった公共交通機関が衰退してその利便性が低い地域が多いことが挙げられ、概してこの様な地域では、自宅や企業・事業所、小売店舗などで駐車場の付帯も進んでおり、通勤や買い物などの日常生活に自家用車が欠かせない[注釈 1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:167 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef