モータウン
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最初はモータウンとタムラの2つのレーベルのみだったが、さらにいくつかのレーベルを所有するようになった。自身の名を冠した第3のレーベル「ゴーディ」(当初は「ミラクル」と呼ばれていた)はテンプテーションズ、コントゥアーズ、マーサ&ザ・ヴァンデラスなどが所属していた。第4のレーベル「V.I.P.」はヴェルヴェレッツ、スピナーズ、モニターズ、クリス・クラークなどがレコードをリリースしていた。

第5のレーベル「ソウル」はジュニア・ウォーカー&ザ・オール・スターズ、ジミー・ラフィン、ショーティ・ロング、オリジナルズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス(モータウン以前にヴィージェイ・レコードでザ・ピップスとしてすでに成功していた)などが所属していた。他に「ワークショップ・ジャズ」(ジャズ)、「メル・オー・ディ」(R&Bからカントリー)、バンドのレア・アースが所属する「レア・アース」(ロック)など様々なジャンルのレーベルも所有するようになった。モータウンの音楽は「The Sound of Young America」(新しい時代のアメリカの音楽)のスローガンの元に黒人や白人にかかわらず広い受け手に人気となった。

スモーキー・ロビンソンはモータウンによる文化的影響について以下のように語った:

1960年代には音楽活動だけでなく歴史を変えていることにまだ気付いていなかった。しかし曲が世界中に知れ渡るようになって気が付いた。私たちが架けた橋は、音楽において人種問題などの壁を取り除くことに気付いた。私はこの時代を生きて気付いた。モータウン初期に南部へ行っていたら観客は差別されただろう。その後モータウンの音楽が広がり、観客は差別されることなく、子供たちは手を取り合って踊っていた[8]デトロイトのボストン・エディソン歴史地区にある「モータウン・マンション」と呼ばれるベリー・ゴーディ邸[9]

1967年、ベリー・ゴーディはこれまでの住居を姉アナとのちの夫マーヴィン・ゲイに譲り、デトロイトのボストン・エディソン歴史地区に邸宅を構え「モータウン・マンション」と呼ばれるようになった。ちなみに以前の住居はゲイのアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』のカバーにおさめられている[9]。1968年、ゴーディはウッドウォード通りと州間高速道路75号線の交差点にあったドノヴァン・ビルを購入し、モータウンのデトロイト事務所をここに移転した(2006年1月、ドノヴァン・ビルは第40回スーパーボウルの駐車場確保のため取り壊された)。同年、ゴーディはゴールデン・ワールド・レコードを買収し、このスタジオを「スタジオB」としてヒッツヴィルのスタジオを「スタジオA」とした。

イギリスではモータウンのレコードは様々なレーベルでリリースされていた。第1のレーベルは「ロンドン」で、ミラクルズの『Shop Around』、『Who's Lovin' You』、『Ain't It Baby』のみがリリースされた。次のレーベルは「フォンタナ」で、マーヴェレッツの『プリーズ・ミスター・ポストマン』を含む4曲のみがリリースされた。その後のレーベルは「オリオール・アメリカン」でリトル・スティヴィの『Fingertips』など多くの曲がリリースされた。1963年、モータウンはEMIの「ステートサイド」と契約し、スプリームスの『愛はどこへ行ったの』、メアリー・ウェルズの『My Guy』がモータウンにとって、イギリスでの初のトップ20ヒットとなった。最終的にEMIは「タムラ・モータウン」を設立し、1965年3月にリリースされたスプリームスの『ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ』がタムラ・モータウン初のレコードとなった。

ファミリー企業のインディペンデント・レーベルを、10年で大企業にしたという意味で、ゴーディはアメリカン・ドリームの体現者である。黒人としてそれをやり遂げたことは当時として画期的だった。その企業活動の原点は、社長が"The Sound of Young America"のスローガンの元に綿密に描いた戦略に基づく、広い受け手を狙った音楽作りである。3人組作詞作曲家チーム、 ホーランド=ドジャー=ホーランド(H-D-H)など専属ソングライターたちによるポップかつ時代の空気を反映した楽曲、ベーシストキャロル・ケイジェームス・ジェマーソンなどジャズ的なセンスも備えたスタジオ・ミュージシャンのユニット、ファンク・ブラザース(英語版)の演奏、ビートを強調するタンバリンの音、実力とスター性を備えたシンガーたちの歌唱およびゴスペル起源であるコールアンドレスポンスの掛け合い的ハーモニーからなる音楽は、モータウン・サウンドと呼ばれ、1960 - 1970年代において、人種を問わず大いに支持された。シンガーやミュージシャンたちは、ゴーディの方針に従い、洗練された衣装をまとい上品に振る舞いながら、『エド・サリヴァン・ショー』など、多くのテレビ音楽番組に盛んに出演し、それまでのR&Bの泥臭いイメージを一掃した。モータウン・サウンドは、60年代にはビートルズに劣らない人気を得て、ポピュラー音楽の中心的存在となった。

モータウンのヒット曲は、時代を経ても常にジャンルを問わず、ほかのアーティストにカバーされ続けているが、H-D-Hは、楽曲印税についての不満がもとで1968年にはモータウンを離れ、同社に対して訴訟を起こしている。
1972年 - 1998年: ロサンゼルス

1967年、作曲家トリオのホーランド=ドジャー=ホーランドが印税問題で離脱した後、ノーマン・ホィットフィールドがトップ・プロデューサーとなり、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、レア・アースのヒットを生み出した。その間、ゴーディはテレビ系子会社モータウン・プロダクションズを設立し、ダイアナ・ロス・アンド・ザ・スプリームスとテンプテーションが出演する『TCB』、ダイアナ・ロスが出演する『Diana!』、ジャクソン5が出演する『Goin' Back to Indiana』などモータウン所属アーティストが出演するスペシャル番組をプロデュースした。規則を緩め、長年所属しているアーティスト自身が作曲およびプロデュースする機会を与えるようになった。その結果、マーヴィン・ゲイの1971年の『ホワッツ・ゴーイン・オン』、1973年の『Let's Get it On』、スティーヴィー・ワンダーの1972年の『心の詞』、『トーキング・ブック』、1973年の『インナーヴィジョンズ』などのアルバムが批評家の称賛を得て成功した。

1960年代中期、モータウンはニューヨークとロサンゼルスに支社を構え、1969年までに拠点を徐々にロサンゼルスに移し始めた。1972年6月に、マーサ・リーヴス、フォー・トップス、グラディス・ナイト・ザ・ピップス、モータウンのスタジオ・バンドであるファンク・ブラザーズなど多くのアーティストを引き連れ本店をロサンゼルスに替えた。この地における音作りに加え、同年からダイアナ・ロス主演でビリー・ホリデイの生涯を描いた映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』(1972年)、『マホガニー物語』(1975年)をヒットさせるなど、ハリウッドにおける映画製作にも力を入れた。他に『Scott Joplin』(1977年)、『イッツ・フライデー(英語版)』(1978年)、『ウィズ』(1978年)、『ラスト・ドラゴン(英語版)』(1985年)などがある。1960年代からモータウンと提携していたエワード・アブナーは1973年に社長となった。

ホーランド=ドジャー=ホーランドが去ったにもかかわらず、1975年までノーマン・ホィットフィールドなどのヒットメイカーが残っていたため1970年代、1980年代にはライオネル・リッチーコモドアーズリック・ジェームスティーナ・マリー、ダズ・バンド、ディバージなど多くのアーティストが成功をおさめていた。1983年には、モータウン25周年記念コンサートが行われ、NBCがその模様を録画放送した。1988年に、ゴーディはロックの殿堂入りを果たした。しかし1980年代半ばに経営不振に陥り、ゴーディは1988年6月にモータウンの所有権を大手のMCAレコードとボストン・ヴェンチャーズに6100万ドルで売却し、インデペンデントとしてのレーベルを終えた。1989年、ゴーディはモータウン・プロダクションズをモータウン重役のスザンヌ・ド・パスに売却し、社名をド・パス・エンタテイメントと改名した。

1990年代、所属アーティストのボーイズIIメンやジョニー・ギルが成功をおさめてはいたが、レーベル自体は困難に陥ったままであった。MCAは社の存続をかけて人事を見直し、ゴーディの後任にジャーリー・バスビーを選任した。バスビーは社がモータウンの作品に十分な配慮やプロモーションを行なっていないとしてMCAと口論となった。1991年、モータウンはMCAとの配給契約を終了してポリグラムを通じてリリースできるよう訴えた。3年後の1993年に、ポリグラムがボストン・ヴェンチャーズからモータウンを買収した。買収資金は数百億円といわれ、日本法人である日本ポリグラムとポリドール株式会社からも拠出された(買収資金の拠出は節税手段のためであると、ユニバーサルミュージック (日本)に対して約200億円の申告漏れを指摘される)。ニューヨークを本社とし、過去の作品(1959年 - 1988年)、新作、編集盤の発売を続けている。

1992年に、ジャズ部門モー・ジャズ(Mo JAZZ)を発足し、主力第1弾に当時新鋭のノーマン・ブラウンを輩出(現在レーベルは活動を休止している)。CTIレコードのサブ・レーベルのクドゥもアメリカではこのレーベルより配給していた。1998年吸収合併の際にこの部門は閉鎖された。


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